〈ルカによる福音書21章29節−22章6節〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
一体ユダがどれだけのことを成したのか疑問です。祭司長たちや律法学者たちは、ユダの助けがなくとも、主を逮捕できたはずではありませんか。「私は毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちは私に手を下さなかった」(ルカ22:53)。彼らは手を下したくとも下せなかったのです。日中は主の話を大勢の人が真剣に聞いており、ザアカイが近づきたくとも近づけなかったように、大勢の人がいわば主を守る役目を担っていて、祭司長たちは主に近づけませんでした。夜は人々もいなくなりますが、明かりが少なかった当時、暗いと誰が主であるのか簡単には判別できなかったから、主のお顔を熟知している内部の裏切りが必要だったのかもしれません。一方次のように考えられます。ユダという裏切り者が生まれること自体、主の聖なる弟子たちの輪に穴が空くことを意味しました。それに破れが生じたのです。そしてその破れこそサタンの侵入経路でした。サタンが入ったのはユダの中ですが(ヨハ13:27)、そのユダを通して、主に魔の手が忍び寄りました。私たちの中に主は生きておられます。その主がサタンに捕らえられ、外に連れ出されないようにするにはどうすればよいのでしょう? 破れを作らなことです。裏切りの要素を作らないことです。裏切ろうとする思いを少しでも持てば、それが破れとなり、そこがサタンの侵入経路となり、あたかも祭司長たちやファリサイ派の人々がやってきて、主を捕まえて連れて行き、こうして信仰は失われます。ですから自分の心に破れがないか確認しましょう。破れが見つかれば必死に修復しましょう。敵の侵入を防ごうとして、イスラエルの人々が城壁の破れを修復したように(イザ22:10)。破れが生じ、そこからサタンが入るとは、どういうことでしょう? 「怒ることがあっても――日が暮れるまで怒ったままでいてはなりません。悪魔にすきを与えてはなりません」(エフェ4:27)。怒りをためず、妬みを抱き続けないようにしましょう。そうすればサタンがつけ入ることはなく、自分の中の主がサタンに捕まって連れて行かれることはなく、要するに、信仰が失われることはありません。
