メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

『わたしの民よ』(2025年8月3日)

〈ルカ福音書20章20-40節〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 もし神の像が描かれたコインがこの世に存在するならば、そのコインは神にお返しすべきということなのでしょうか? そもそも神の像を描くことは不可能ですし、また、無理やり神の像を描くことは禁じられています(出20:4)。ところで、コインではありませんが、この世の銀貨などよりもはるかに高価なものがあります。それは神の像が刻まれた人間です(創1:27)。この極めて尊い存在にして、天使に等しい存在である(36)人間こそが、天の神に返されるべきものです。神の像を何らかの被造物の像と取り違えると、つまり、神以外のものを神としてあがめると、自分に刻まれていたはずの神の像そのものが、その被造物の像に取り変えられてしまいます(ロマ1:23)。そして、何らかの被造物の像が刻まれた私たちが行きつく先は、その被造物、というよりかは被造物が造られたこの世の土であり、さらには陰府です。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。死者が何かを所有することはできません。よって、神はアブラハムの神であるならば、アブラハムは生きていることになります。さらに、神は永遠のお方ですから、神は永遠にアブラハムの神であり、永遠にイサクの神であり、永遠にヤコブの神です。私たちは、「私たちの主」と呼びます。「私の神、私の主」。この「の」は所有格であり、「私のもの」という意味なのでしょう。私たちは――こう言ってよければ――神を持っています。そしてその神は永遠のお方です。よって、「私の神よ」と言えることはとてもすばらしいことです。なぜなら、永遠の神を持つ以上、私たち自身も永遠でなくてはならないからです。「私の神」と信じ告白することは、自分もまた永遠に生きていくことを信じ、そう告白していることと同じです。「私の神、私の主よ」とは、私たち自身も復活し、永遠の命を持って永遠に生きていくという復活信仰の表明です。よって生半端な気持ちでこの告白はできません。どうか神が、私たちのことを「私の民」(ホセ2:3)と呼んでくださるように、そして私たちも、その神のことを「私の神」「わが神よ」(ホセ2:25)と呼ぶことができますように!


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