メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

『胎内にあるときから』(2025年11月2日)

〈ルカ福音書22章54-65節〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 私たちは、主イエスのことを知識においては知っています。主は十字架にかかられ、復活されたお方です。しかし、心と魂を込めて、私は主を知っていると言えるかどうか? 主のことを「知らない」と言ったペトロでした。一方、「お前を殴ったのは誰か。言い当ててみろ」と言われた主は、何もお答えにはなりませんでした。誰だか言い当てることができなかったのでしょうか? 殴った人を知らなかったのでしょうか? 油を用意していなかった愚かな人たちに対し、家の主人は、「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない」と言いました(マタ25:12)。御国に迎えられるに値しない人たちのことを、主は「私が知らない人たち」と言われたのです。ではどのような人を知っておられるのでしょう? 「神を愛する人は、神に知られているのです」(一コリ8:3)。神に知られていない人たちは、神を愛することなく滅んでいく人たちです。神を愛するならば、神に知られています。そして、神を愛する人こそ、また、神の掟を守る人こそ、「私は神を知っている」と告白することができます(一ヨハ2:4)。この夜のペトロが愛の掟を守れなかったならば、主はペトロに、「私もあなたを知らない」と言われたでしょう。ではペトロはいつ、本当の意味で主を知ったのでしょう? 「私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(ヨハ21:17)。主が自分を知っている。これは、自分が神を愛しているということであり、さらに、神を愛している自分を、神はご存じであるということなのです。しかし、主がペトロに続けて言われたように(同21:18)、主に知られている人は、この世で苦しみに遭い、主のために死んでいかねばならないです。私たちはどれほど主のために苦しんでいるのでしょう? なるべく苦しみを避けて生きようとしているのではないか。そう問いながら、はっきりと公言できる者に成長しましょう、私は主に知られている、と! どうか主が、私たちのことをご存じでありますように。そして、私たちが主を愛する者たちであることを、母の胎内に造る前から(エレ1:5)、主がご存じでありますように。


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