『一番大切な願い事』(2025年2月16日)
〈ルカによる福音書18章31-43節〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
主が何のために十字架にかかり、復活されたのか、その意味を大勢が知りません。その意味が隠されてい(34)るからです。では、どうすれば隠された状態でなくなるのか? 主の方に向き直る(二コリ3:16)ことによります。この時は弟子たちにも、これから主がなされる出来事とその意味は隠されたままでした。主はエルサレムの町に入っていかれます。エルサレムに入ってからの主は、ほとんど奇跡を行われません。強さよりも弱さが、神の威厳よりも人間の側面が色濃く出ています。では、主がエルサレムに入られる直前に行われた奇跡は、どうして盲人の癒しだったのでしょう。そのことについて、さっさと読み飛ばしてしまいそうな私たちの足を、盲人は必死に止めようとするかのようです。ちょっと待ってくれと、自分の存在を忘れないでくれと。盲人のように、主のお姿を見るや否や、願い事をすること自体は悪いことではありません。しかし、私たちはどんな願い事を最初にするのでしょうか? 「目が見えるようになりたいのです」とは、ほとんど誰も祈らないのではないでしょうか? なぜなら、自分はきちんと見えていると思っているからです。しかし主は言われます。「『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハ9:41)。私たちが最初にする願い事は、目が見えるようになりたい、という願い事でなくてはなりません。主がなされることの意味、そして御言葉の意味が隠されている(34)ということは、見えていないということです。弟子たちも皆盲人でした。私たちも主によって目が開かれる必要があります。主がエルサレムに入る前の物語は全て、受難物語の前奏曲にすぎず、主がなされた数々の輝かしい奇跡は、いわば誰でも見えるものでした。しかしこれからは違います。主がエルサレムで受難を受けられたこと、十字架にかかられたこと、復活されたことを心の目で見ることができなければ、何も見えていないのと変わりません。そのことを教えるために、主は盲人をこの場に招かれ、癒されたのだと思います。盲人がそこに存在していたのは、消して偶然ではありませんでした。
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