メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

『一度目は粉々に砕かれても』(2025年5月25日)

〈出エジプト記32章〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

主が戻られると、病にかかった人がおり、弟子たちに治してもらうように頼んでも治すことができませんでした(マタ17:17)。弟子たちには病を癒す力が与えられていたはずです(ルカ9:12)。よって、元々その力がなかったからとか、元々不信仰であったからではなく、主が山に上られている間に、彼らは信仰を失ってしまったゆえに、病を癒すことができなくなったのです。弟子たちはなぜ不信仰に陥ったのでしょう? モーセが山に上っていた間に人々は不安になり、忍耐して待つことができませんでしたが、主が山に上られた時も同じで、残された人たちは忍耐して待てず、不信仰に陥りました。そして不信仰に陥ると、人は神以外に頼るようになります。「私はすぐに来る」(黙22:20)と主は言われましたが、人々が思っていたようにはすぐに戻って来られず、人々は忍耐して待つことができないため、不法ははびこり、愛は冷えています(マタ24:12)。神のみ力を目で確認できない。すると人は自分のことで精一杯になります。しかしそのような人たちをご覧になれば、主はお怒りになります。モーセが人々の戯れる様子を見て憤慨したように、主も戻ってこられる時、二枚の板を粉々にされるのでしょうか? 主は既に一度、二枚の板を粉々にされました。十字架における天に向かって伸びる木は神への愛を象徴し、水平に伸びる横板は隣人愛を象徴します。主はご自身の死をもって、十字架という二枚の板を粉々にされました。しかし、主は本気で人々の救いのために祈ってくださっています(30)。この後モーセがもう一度山に上り、二枚の板を再び授けられ、それを民のもとに運んだように、愛の掟を十字架の死でもって破壊された主でありますが、主も再び愛の掟を運んでくださいます。新しい掟の内容は一度目と全く同じですが、この掟を前にする私たち自身の心構えは、前とは異なっていなくてはなりません。「私が愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」(ヨハ13:34)。この新しい掟を、主が怒りのために再び粉々にされないように気をつけましょう。主を二度十字架につけることは許されないのですから(ヘブ6:6)。


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