メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【無垢な人には無垢に】(2025年7月13日)

〈ルカによる福音書19章11−27節〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 主人が帰ってくるまで、僕たちは商売して稼ぐよう命じられました。この世の商売ならば、得意不得意もあるはずですが、霊的な商売は全ての信仰者が成功を収めねばなりません。不正にまみれた富でもって、仲間を作らねばならない(ルカ16:9)のだとしたら、清いムナでもっては、どれほど仲間を作らねばならないことでしょう。御言葉というムナをもらって、私たちは仲間、改心者を作る、つまり、伝道に励むよう命じられています。伝道に成功した人は褒められ、何もしなかった僕は厳しく罰せられました。一体、主は厳しいお方なのでしょうか? この僕は主人が厳しい方だと思っていました。そしてこれが、彼に裁きをもたらすことになります。主は厳しい方だと思っていたことが、罪とされるのです。この僕はムナを隠しましたが、いわば彼自身を隠したのと同じです。主の御前から隠れようとしたのは、最初の夫婦です(創3:8)。二人も罪を犯す前ならば、隠れることはありませんでした。神は恐ろしいお方ではなかったからです。罪を犯し、良心の呵責に苛まれていると、神が恐ろしくなりました。この僕が主人を恐ろしいと考えていたことは、彼が罪を犯していた証拠です。罪を犯していた以上、裁かれて当然です。良心にやましさを感じていると、神の恵みすらも罰であると錯覚します。「無垢な人には無垢に、心の曲がった者には背を向けられる」(詩18:26)。神がどのようなお方に映るかは、自分自身の心を映し出す鏡です! パウロほど、一ムナを元手として稼いだ人はいないでしょう。しかしその最期、彼の周りにはどれほどムナが残っていたのか? 「皆私を見捨てました」(二テモ4:16)。牢獄に閉じ込められていたパウロは、手持ちはすっからかんでした。稼いだどころの話ではなく、大損もいいところです。でも、パウロは主の御前で震えていたのではありません。誰よりも胸を張って(二テモ4:8)、喜んで最後の審判を迎えました。結局、どれほど稼いだ(改心者を生んだ)かよりも、曇りなき良心を持って、伝道に励むこと自体が大切です。そうすれば、主の御前にあって、百倍の実りを知らずして運んでいます。


メッセージ一覧に戻る