〈出エジプト記30章〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
私たちは、善い行いという名の香りを放たねばなりません。隣人愛の務めを果たすことによって、神が嗅いで喜んでくださる良い香りを、私たちは献げていきます(二コリ2:16)。主に献げるべき香に、決められた聖なる材料以外の不純物を混ぜてはなりませんでした。自己愛とか、見せびらかしとかといった要素を、私たちの行いに混ぜてはなりません。主がお生まれになった頃、ローマ皇帝が全土の人口調査をしました(ルカ2:1)。それは、支配する民を疲労させ、反乱を起こさせなくし、税金を正確に巻き上げるためでした。これは当然、正しい目的に沿った人口登録ではありません。モーセは、神に献げるべきものを決めるために、そして、自分たちは神に献げられるべき存在であることを自覚するために人口登録をしました。教会籍(別帳、除籍)を整理することが時に必要となってきます。もし、正しい目的に沿って教会籍を整理しないとしたら、私たちも罰せられるかもしれません。つまり、教会籍の整理は、邪魔な人たちを排除するために行うのではありません。残された自分たちが神に属することを感謝するためです。神は礼拝で使う物も、礼拝に仕える人自身も洗い清めるように命じられました。洗い清めるために、特別な聖油が用いられました。私たちの教会の一つ一つも、私たち自身も、聖なる油によって清められねばなりません。その油はどこにあるのでしょう? キリストとは、油注がれた者という意味です。私たちは、油注がれた方であるキリストの油を注がれます。しかし私たちにとって、イエスはキリストとなっているでしょうか? そもそもキリストはいつ、油注がれた方として即位されたのでしょう? 主に実際に油を注いだ人がいます(ヨハ12:3)。ナルドの香油は「純粋な油」と言われるように、まさに聖なる配合で作られた、隣人愛の務めという名の油です。マリアは自分の持てる油でキリストに注ぎ、イエスをキリストにしました。私たちも隣人愛の務めでもって、イエスをキリストとさせていただきましょう。するとキリストは油注がれた者となり、今度はご自身の油で私たちを洗い清めてくれます。