〈出エジプト記31章〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
天地を造られた神は、人が造ったものにお住まいにはなりません(王上8:27)。しかし、祭司などの奉仕者は、人が造ったものを通して神に奉仕します。モーセやアロンも、技術者がいなければ、祭壇でいけにえをささげることはできなかったでしょう。教会の礼拝も、具体的な奉仕者がいなければ、行うことができないのではないでしょうか? 私たちにとっても、祭壇や幕屋などの技術者ではありませんが、教会を造ってくれる人が必要です。でもどのように教会は造られるのか? 預言によってです(一コリ14:4)。では預言とは何かといった問題になりますが、まず預言は未来に向かっています(ヨエ3:1)。未来への希望がないとしたら、私たちの教会は死んでしまうでしょう。また、預言は自分自身ではなく、他者を励ます言葉であり、つまり、愛の行いを伴うものでした。愛の掟を言葉と行いをもって実践することが、預言を語ることなのかもしれません(一コリ14:1)。よって、未来への希望を持ち、隣人への愛という名の預言を語り合って、教会を造り上げていきましょう。こういった意味での教会を造る人がいなければ、礼拝は一向に成り立ちません。主が語り終えられた(18)日は、何曜日だったのでしょうか? 安息日であったことと思います。安息日を聖別せよという掟が与えられた日は、安息日に当たっていたと考えるべきです。実際、モーセの律法は、昔から安息日に朗読されていました(使15:21)。十戒が読まれる日が安息日であったとしたら、十戒が授けられた日そのものも、安息日でなくては筋が通りません。モーセの手に二枚の掟、十戒を持たせて山を降りさせた日が、安息日でした。二枚の掟、十戒は、愛の掟そのものです(マタ22:39)。教会という山から、私たちは何を持ちかえるのでしょう? 愛の掟です。神を愛し、隣人を愛する。この聖なる愛の掟を、私たちも聖なる山教会から、安息日ごとに大切に持ち帰りましょう。