〈マタイ福音書21:1-11〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
大勢が、町中の人たちが、主を喜んでお迎えしたのに、その一週間後、彼らは皆、どこかに行ってしまいました。それもそのはず、主をお迎えした人たちは、目に見えないものを信じる信仰を持って、主をほめたたえたのではなかったからです。むしろ、彼らは奇跡を見たからにすぎませんでした(ルカ19:37)。そのような人たちが主のためにささげたものも、彼らの衣服も、彼らが持ってきた木の枝も、後から振り返ると、全て汚れて見えるかのようです。前へ歩まれる主のために、私たちも敷かねばならないものがあります。枝と鞭は形状としては似ています。太くて立派な枝であれば、人を懲らしめ、拷問するための鞭の働きをなします。私たちを懲らしめるための大きくて太い枝を、私たちは背に負っています。それは、主がそれぞれ負うようにと命じられた十字架です(マタ16:24)。主イエスがおかかりになられた本物の十字架に比べれば、私たちが負うべき十字架は、小さく細い枝のようなものです。しかし、自分が負うべき十字架という枝を道に敷き、主にその上を歩んでもらいましょう。それは、私たちの苦しみと悲しみがつまった十字架という枝を、主に踏み砕いていただくためです。では衣服はどうなのでしょう? 人々は枝だけでなく、衣服も道に敷いたのです。私たちにとって、どんな衣服を主のためにささげればよいのでしょう? それは、私たちがもうすでに等しく着ていなくてはならないところの衣服です。キリストという衣服を(ロマ13:14)、つまり、主によって新しくされた自分自身を、主の足もとにささげましょう。主から与えられた尊い衣服を、主に踏んでいただくためにお返しするとは矛盾しているでしょうか? しかし、持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか(一コリ4:7)? まるで衣服を広げるかのように、新しくされた私たち自身を広げましょう! 謙遜になり、主の御前に身を低くし、ひれ伏して、私たち自らが絨毯となり、主にその上を踏んで歩いていただきましょう。新しくされた私たち自身の上を、王なる主に歩いていただく。これ以上光栄なことはありません!