【触れてもらうために】(2025年2月9日)
〈ルカによる福音書18:15-30〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
人々は、何を願って子供たちを主のところに連れてきたのでしょうか? 主が子供に触れられることは、単に祝福するためではなかったように思われます。主に触れた女性がいました(マコ5:28)。彼女は、主に触れることによって罪が赦されました。よって、簡単な気持ちで主に触れることは許されません。また、主に触れてもらう必要があったとすれば、乳飲み子ですら、罪を引き継いでいるあかしです。主は、子供たちは天の国の住民のようであるから、私のもとに来させなさいと言われたのではありません。しかし、大人に比べれば、子供の罪が小さいことは確かです。だからこそ、子供たちは主に触れてもらうことができたのでしょう。ヨハネは主が来られる前に、悔い改めのバプテスマを授けていました。それは、少しでも身を清くさせた状態で、主の御前に人々を送り届けるためです。私たちも主に触れていただくためには、身を清め、そして子供のように身を低くしなければなりません。ぜひ主に触れていただき、そして病を負ったあの女性に倣い、私たちの方から手を伸ばし、主に触れましょう。命の言なる主を、手で触れなくてはならないのですから(一ヨハ1:1)。金持ちの議員は、自分は捨てることができないと悟って去りました。この様子を御覧になり、主は、金を持っていない方が、天の国に入るのには楽だと言われました。財産は足かせとなります。またこれは、家族を持つことに関しても言えるでしょう(一コリ7:32)。さらに、それぞれの人が、それぞれ重荷となるものを持っています。持ち物を全て捨てるとは、どんなに大変なことでしょう。それでは誰が救われるのだろうかと、当時の人たちも、この主のお言葉につまずいたようです。しかし、私たち人間は、無一物の存在として生まれてきました(一テモ6:7)。乳飲み子は、自分が失ったら大いに悲しい思いをするものは持っていないでしょう。全てを捨てるということは、私たちは何も持たずに生まれたことを、思い起こさねばならないということであり、そして、主の御前にあって、乳飲み子のような存在とならねばならないということでもあります。