【なんのために戻って来た?】(2025年1月26日)
〈ルカ福音書17:11-37〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
主は、エルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られました。主はユダヤ人にとっても、サマリア人にとっても、等しく神であられるからです(ロマ3:29)。しかし、全ての人が、主を神と認識するのではありませんでした(17)。私たちは何のために、主の御前に戻ってくるのでしょうか? 何のために礼拝に集うのでしょうか? ほとんどの教会において、礼拝は讃詠から始まります。礼拝は、神を賛美することから始まるからです。「神を賛美するために戻って来た者」(18)。礼拝に集うのは、神を賛美するためです。キリストが再臨されることによって、分裂が生じます。しかし、元々全員が滅びる定めにありました。この段階では分裂はありません。しかし、主がやって来られ、主を信じる者と信じない者とに分かれ、結果として分裂が生じました。「死体のある所には、はげ鷹が集まる」。裁きは死体のあるところで行われます。そして、死体のある場所とは、汚れた人たちが集う場所のことです。ここでいう死体は、文字どおり死体のことではなく、むしろ罪人のことです。罪に死んでいる者、悪しき行為で身を汚している人は、死んでいるようなものであると言われています(一テモ5:6)。罪を犯して生きていれば、私たちは死んでいるのも同じであり、私たちの体は死体と同然です。そしてそこにおいて、神の裁きは行われます。では、神の裁きが自分の身になされないためには、私たちはどこに集まればよいのでしょう? 生きた体があるところです! 主の体は死体ではなく、清い御体です。そして、主の体は教会です。生きた体であり、命の源であるキリストの体なる教会では、神への賛美が行われています。私たちはそこに、いえここに、禿鷹を寄せ付けてはなりません。主の御体は生きており、そこは聖霊の鳩が止まるところであるのですから。神を賛美する思いで、キリストの体なる教会に戻ることを繰り返していれば、禿鷹もばかではありません、ゴミ捨て場に何日も網を張っておけば、カラスもそのうち違うところに餌を探すように、禿鷹も清い人たちが集うようなところには、自ら近寄ってはこないでしょう。