【行いは尽きない】(2025年1月19日)
〈ルカ福音書17:1-10〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
「つまずきは避けられない」。このお言葉にどれほどつまずきを覚えることでしょう。しかし、つまずきは避けられない、と主は言われています。つまずいてしまったこと自体を、主は断罪されません。つまずきからいかに立ち上がるかが、主が大切に思われていることです。つまずきから立ち上がった時、私たちは理解します。自分は完全にはつまずかなかったのだと。なぜなら主が自分の足を支えていてくださったのだからと(詩91:11)。「私どもの信仰を増してください」(5)と使徒たちが言ったのは、罪を赦すためには信仰がもっと必要だ、信仰によって罪を赦すことができるのだから、と考えていたからです。使徒たちは信仰を持っていなかったわけではありません。しかし、使徒たちは、どんな神を信仰するのか理解していなかったのでしょう。神がどういうお方なのかを、理解していないのならば、それは、信仰をからし種一粒ほどさえ持っていないことになるのかもしれません。私たちが信仰する神は、からし種一粒さえあれば、山をも動かせると言われたお方です。「山」とは、七の七十倍悔い改めても、決して小さくならない罪の山ではないでしょうか。私たちは皆、巨大な山のような罪を抱えています。しかしそれは一瞬に、あるものによって帳消しにされます。それは神の愛です(マタ18:32)。私たちが信仰すべき神は、私たちの罪を、御子の十字架によって赦してくださる神です。主が、山のような罪を抱えた自分を赦してくださったことを思えば、相手の山のような罪を、一瞬に海に放り込むことができるかもしれません。主は大変厳しい内容(7)を告げておられます。それは、信仰だけでは不完全であると教えておられるかのようです(ヤコ2:13)。愛が尽きないように、愛の神に対する信仰から生ずる行いもまた、尽きることはありません。とりわけ赦し合うといった愛の行いは、やりすぎるということはありません。罪を赦し合いなさいとの命令を、果たし終えることもありませんし、罪を赦したところで、主に褒められるのでもありません(9)。いつまでも、罪を赦し合うという行いは続いていくものだからです。