【帰りがけに】(2024年9月22日)
〈ルカによる福音書10:21-37〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
主が突然祈り始めた時は他にもありました。それは、本格的な受難に入られる直前でした(ヨハ17:1)。一方で、今の箇所の場合、どうしてこの時にといった疑問は残ります。あるいは、これといった理由もなく、主が突然祈り始めたとすれば、それこそが理由ではないでしょうか? 私たちは悩みがある時、喜びに満ち溢れた時に祈ります。しかし、本来、大した理由もなくして、たえず祈らなくてはなりません(一テサ5:17)。そのことを、主が突然祈り始めたことから、はっと気づかされます。「これらのこと」(21)とは、主のこれまでの教え全てのことのように思われます。「幼子のような者」とは、どんな人のことなのでしょう? 小さいといっても、色々な意味があります。取るに足りない、何も分からない、そして、救うに値しないもまた、「小さい」に該当します。もし、ここでの「幼子」が否定的な意味だとしたら、主はどうして、そういった人に御心が明らかにされたことを喜ばれたのでしょう? しかし、福音とはまさにそういうものです(ルカ5:31)。主は、恵みを施すのに値しない人たちを救うために、この世にやってこられました。だからこそ、私たちは主の御業を賛美するのです。善いサマリア人は、主ご自身のことであると言われます。主は滅んでいく人を助けてくださり、そしてご自身が助けてくださった人を、宿屋の主人に手渡されます。私たちは、あたかも宿屋の主人であるかのように、主が助け救ってくださった人を、お互いに預かり合います。しかし、主は、再びやって来てくださるのです(35)! おそらく、このサマリア人は、帰りがけに宿に寄られ、その人と一緒に宿屋を出て、歩んでいったことと思います。私たちも、今はお互いに隣人に預けられていますが、私たち一人一人のところに、主は帰りがけに寄ってくださいます。主は今、別の人を助けておられる最中かもしれませんし、あるいは天に旅立ち、再び地上に戻ってこられるという意味なのか分からないけれども、私たちのところに、主は再びやってきてくださいます。そしてそれは、私たちを一人一人引き取って、天へと共に旅立つためです。