【徐々に追い出すのはなぜ?】(2024年8月25日)
〈創世記45:26-46:7〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
ユダヤ教の三大祭は、キリスト教の場合、イースター、クリスマス、ペンテコステに当たります。イースター、クリスマス礼拝を忘れてしまえば、信仰者として脱落です。とても目立つ規定が記されています(19)。これは、カナンの土地で、その先住民が行っていた慣習であったそうで、つまりは、カナンの風習に染まってはならないと命じているとのことですが、子山羊をその母の乳で煮るとは、残酷ではないでしょうか? また、山羊をその母の乳で煮てはならないのだとしたら、羊はどれほど、その母の乳で煮てはならなかったことでしょう。私たちは主に養われる羊として、その母の乳で煮て焼かれることはありません。私たち羊にとっての母とは何でしょう? 教会です。教会という母の乳(一ペト2:1)は、私たちを成長させるためのものです。私たちを煮て焼くためのものではありません。さらに、母なる教会の混じりけのない乳とは、福音・御言葉のことです。よって、御言葉によって屠られ、いけにえとされることはありません。なぜなら、御言葉は私たちを生かすためのものであり、破滅から救うためのものだからです。もし、教会に属する人たちが、母なる教会の乳によっていけにえとされるようなことがあれば、それはあまりに残酷ではないでしょうか? 母なる教会だけは私たちの味方でなくてはなりません。「私は彼らをあなたの前から徐々に追い出すので、あなたは子を産み、国土を受け継ぐに至る」。この地上において、御国が一気に大きく広がること以上に、すばらしいことはないかもしれません。が、ゆっくり広がることを、主は教えておられます。「監督は、信仰に入って間もない人ではいけない。高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないから」(一テモ3:6)。入信以来何もかも順調続きであるとしたら、高慢にならない方が不思議です。教会がすばやく世に広まっていけば、私たちの教会は傲慢になっていたのではないでしょうか。陣地を広げる代わりに、高慢という罪の風が内部を襲ってきます。ですからゆっくり成長していくことによって、地を受け継ぎ、信仰の子どもたちを着実な残すことができます。