【判決を曲げるもの】(2024年8月18日)
〈出エジプト記23:1-13〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
判決を曲げるもの 出23章1-13節 神は私たちに対し、正しい裁き、正しい判決をお望みです。公正な裁判を望んでおられます。罪を犯した者は、それにふさわしい罰を受け、容赦なく断罪されるべきです。では、神の裁きにおいて、御憐れみもお情けも、全くそこに入り込むことはできないのでしょうか? 新共同訳の小見出しにあるように、「法廷において」と、「訴訟において」の掟の間に、隣人を憐れまねばならないといった掟が挿入されています。それはまるで、裁判であれ、訴訟が取り上げられる場であれ、憐れみであれば、そこに入り込む余地があるということを、ほのめかしているかのようです。巨大な借金を帳消しにしてあげた王は、その家来を裁く場において、憐れみを介入させました(マタイ18:27)。それは決して公正な裁判ではありませんでした。憐れに思ったから、巨大な借金を帳消しにする。これは、偏った裁きでなくて何でありましょう。しかし、裁きと判決を偏らせたのは、裁く者の憐れみの心だったのです。「悪い者を正しいとすることも、正しい人を悪いとすることも、ともに、主のいとわれることである」(箴17:15)。しかし、神ご自身、公正な裁きを行われるわけではないのではないか? なぜなら、私たちの罪は、火を見るよりも明らかではありませんか? しかし、神は御子を償いのいけにえとすることによって、私たちの罪を赦してくださるのです。これは、悪い者を正しいとすることでなくて何でありましょう? 悪い者であるはずの私たちが、義とされ、正しいとされるのだとしたら、裁き主の御目をくるわせる何かがあるということです。それは、主ご自身の憐れもうとする思いです。主は、私たちを憐れんでくださることによって、正しい裁きができなくなっておられます。よって、私たちも、私たちのための犠牲となられた御子イエスに感謝しながら、お互いに憐れみ合うことが求められています。たとえ裁きの場であっても、厳密に公正に裁くよりかは、むしろ、赦し合い、憐れみ合うことが求められています。よって、公正な裁きをする以上に、公正な裁きをしないことが求められていると言っても、過言ではありません。