【初子をささげるように】(2024年8月11日)
〈出エジプト記22:20-30〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
自分が苦難を体験しているからこそ、苦しい体験をしている人を憐れむことができる(20)とは、まさに黄金律そのものです(マタ7:12)。私たちは、自分が苦しんだ体験を、いわば世の人のために還元しなくてはなりません。自分が味わった苦しみを、自分だけの問題で終わらせてしまってはなりません。また、私たちが苦難に遭うとしても、それは、神によって与えられる恵みです。なぜなら、苦難に遭うことによって、隣人になすべき努めは何かを学ぶことができるからです。「憐れみ深い」(26)お方をののしってはなりません(27)。段落が設けられ、小見出しがはさまっていますので、文脈が遮られてしまっていますが、「憐れみ深いお方である神をののしってはならない」ということです。憐れみ深い神をののしるようであれば、私たちを憐れもうとされている神を嘲るということですから、当然神に憐れまれなくなってしまいます。でも、なぜ憐れみ深い神が、いけにえなどを望まれるのでしょう? しかも、「初子」(28)とあるように、良質ないけにえを望まれるのでしょう? 主はいけにえを欲しておられるわけではなく、ましてや人の命を欲してなどおられません。しかし、主は傷のない初子を求めておられることから、主が私たちに対し、どんなことを望まれているか、すなわち、憐れみをささげねばならないということを学びます。私たちはそれぞれ良いところを持っています。正義、信心、信仰、愛、憐れみ、忍耐、柔和など。しかし、その中で一番大切なのは憐れみです。私たちそれぞれの中に宿る、いえ宿っていなくてはならない憐れみこそが、初子にたとえられるような、最も尊く、聖なるものです。そしてそれを、私たちは神におささげいたしましょう! 神のために、隣人に憐れみを施すのです。それこそが、神が最も喜ばれるいけにえです。しかも、初子、すなわち、全く汚れやしみがついていない状態のいけにえをささげよということなのですから、私たちの心が、自分の利益や欲望がいささかでも混じった状態であれば、神は何一つを受け取られません。偽善が混じっていない憐れみを施しましょう(マタ6:3)。