メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【疲れ果ててしまわないために】(2024年7月7日)

〈出エジプト記17:1-16〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 モーセがしゅうとに伝えたことは、あらゆる困難から、主は救い出してくださったことでした。福音として何を伝えればよいのか、改めて学ばされます。パウロもキリストの十字架と復活を宣べ伝えつつ、自分自身が困難から救われたことを常に伝えました(二コリ1:4)。私たちもキリストの十字架と復活を宣べ伝えつつ、自分が困難から救われたことを告げ知らせることによって、相手を励ますことができると信じます。知恵者モーセが、自分は重荷を背負いすぎていることに気づいていなかったとは思えません。彼は気づきながらも、それを手放せませんでした。なぜなら、全ての裁きを司ることは、全権を握ることを意味していたからです。裁きの務めを分担することは、権力を分散させることを意味しました。そもそもモーセは何を学んだのか? 自分に委ねられた権威を、人に分け与えるといった謙遜をこそ、彼は学びました。召命感は、えてして独裁者的な自我意識に繋がりかねません。自分の使命だからといった思い、誰にも任せられないといった傲慢が、自分自身だけでなく、人々をも疲れさせてしまいます。主は十二人の使徒を立てられ、権威を分け与えられました(マタ19:28)。主が仕事を負いすぎて疲れることなどないはずですから、主が権威を弟子たちに分け与えられたのは、権威や地位を独占せず、むしろ与え合い、助け合う間柄となるようにと教えるためだったと思います。よって私たちも、モーセがしゅうとを介して素直に学んだこと、すなわち、謙遜、謙虚、与え合いの精神といったものを学ばねばなりません。モーセはこの後、安らぎを得たことでしょう。しかし、背負いすぎていた仕事から解放されることによって、安らぎを得たのではありません。むしろ、謙遜になることによって、信仰者としての安らぎを得たのです(マタ11:28)。分け与えることのできたモーセの謙遜に学ぶことによって、私たちも霊の安らぎを得ることができます。


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