【越境】(2024年7月14日)
〈出エジプト記19章〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
律法を通して御心を悟るのですから、律法は恵みです。一方律法を通して罪が断罪されるのであれば、律法は恐怖です(ロマ7:7)。山に響き渡った騒音や雷は、恐怖感を増しますが、それは、神と語り合うモーセを栄光に輝かせるものでもあり、聖なる領域と外との境界を示すためでもありました。礼拝の場は、神と語り合おうとする私たちを栄光に輝かせます。だからこそ私たちは、軽々しく教会の(目には見えない)敷居を踏み越えてはなりません。それはすなわち、「私の律法を犯してはならない」ということです。モーセが滅ぼされなかったのは、神が特別に彼を守ってくださったからです。彼が密雲に包まれていたのは、彼が滅んでしまわぬようにと、彼の身を守るバリヤーが張られていたからです。私たちは教会に上ってきます。本来、神の御前にあって、汚れは普段にもまして目立ち、滅んでしまいそうです。しかし、モーセがそうであったように、密雲がバリヤーのように守ってくれています。それは聖霊という雲のことです。しかしこうも考えられます。私たちはどうしても罪を犯し、そしてその際には、越境してはならない境界線を越えてしまっています。でも私たちは滅んでいません。なぜなら、主がこちら側に越境してくださったからです。罪に汚れている人に触れれば、触れた者も断罪されます。しかし主は、ご自身からこちら側に歩み寄ってきてくださいました。これは越境でなくてなんでありましょう! そして、主は愛の掟という新しい境界線を設け、その内側に私たちを入れてくださいました(ヨハ13:34)。私たちがその境界線を越えてしまいそうになる時には、雷、稲妻、角笛といったけたたましい警告音が鳴って注意してくれるはずです。向こう側に行ってはならないと。かつて警告音を無視し、汚れた場から聖なる場に越境してしまえば、民は滅んでしまいました。逆に私たちは、聖なる場から外に越境しようとする際に、警告音がブザーのようにけたたましく鳴り響くはずです。それは良心の声であり、また聖書の御言葉です。その警告音を無視して、向こう側へと踏み越えていかないようにしましょう。