メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【どのように支える?】(2024年6月30日)

〈出エジプト記17:1-16〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 民にはまず水の試練が降りかかり、その後パンの飢えに見舞われ、そして再び水の試練が続きます。同じような試練が繰り返し降りかかったことは、試練はどこまでも続くことを私たちに教えています。モーセは岩を杖で打ちました。本来、神である岩を杖で打つことは、とんでもなく不敬なことではないでしょうか? しかし、岩なる神を打っている人は、実際には大勢います。たとえば主を十字架につけた人たち。主の十字架の周りで見物していた人たちも同じです。救いの水は、神を木で打ったことによって、いや、神を十字架の木に打ちつけたことによって流れてきました(ヨハ19:34)。その水は、私たち罪人が、岩なるキリストを打つことによって出てきたのです。悔い改めをもって、その水を受け取りましょう。岩から流れてきた水を飲んだ民の多くが荒れ野で滅んだように(一コリ10:3)、身をわきえないまま救いの水を飲めば(一コリ11:27)、私たちも道途中で滅んでしまいます。モーセは手に神の杖を持っていたはずですから、二人はモーセの手ではなく、モーセの手に握られていた杖を支えることによって、イスラエルに勝利をもたらしました。私たちがサタンに勝利するためには、神の杖き下ろされてはなりません。その杖は、キリストがおかかりになられた十字架のことです。その十字架の木が倒れないようにするためには、一体どんな対策が必要でしょうか? パウロは自ら十字架にかかることによって、キリストの十字架が倒れないようにしたようです(ガラ2:19)。確かに、木が倒れないようにするためには、他の木で支えるのが一番です。私たちもそれぞれ十字架の木につけられて、その木をもって、主の十字架が倒れないように、しかと固定しなくてはなりません。主の十字架の木が倒れてしまえば、私たち自身滅びるしかないないのだ、といった真剣な思いで、自ら十字架の木にかかり、その木をもってキリストの十字架をお支えしましょう。


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