【一本の木】(2024年6月23日)
〈出エジプト記15:22-16:36〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
神は、イスラエルの民に水とパンを与えられましたが、それは、彼らが約束の地にたどり着くためでした。主は、約束の地に至るまで導くと約束されたのだから、そのために必要なものは、主ご自身が与えてくださると信じて主に従いましょう(マタ6:33)。水が苦いか甘いかは、世は呪われているか祝福されているか、といったことと同じです。アダムの罪によって大地は呪われました(創3:17)。では、水は呪われなかったのでしょうか? 世は海にたとえられます。世という海の水は、人間の罪のせいで苦くなってしまいました。しかし、主によって示された一本の木を、モーセが水に投げ込むと水は甘くなったように、この世という海の水に、一本の木が投げ込まれれば、この世は甘い喜びに満ちたところと変わります。その木はキリストの十字架です。世という海の水がどんなに苦くても、キリストの十字架が投げ込まれれば水は甘くなり、世は喜びに満ちたところと変わります。木を用意されたのは神ご自身ですが、水に木を投げ入れたのはモーセです。キリストの十字架は神ご自身がご用意され、一方私たちは、それを世の人々に提供していく務めを担っています。これは伝道の使命です。この世にたとえられる海の水を、とことん甘くしていきましょう。イスラエルの民も、約束の地の間際までは進むことができました(35)。もし、彼らが約束の地に進めとのご命令を無視し、同じ所にいつまでもとどまったならば、マナは途絶えたことでしょう。私たちにとって、天から降ってくるのは命のパン(ヨハ6:33)です。命のパンは、私たちがこの世という海、あるいは荒れ野の大地を進んではじめて、天から降ってきます。そして、マンナが日々与えられたように、主の御恵みも日々降り注がれています。では、昨日、皆様それぞれにはどんな恵みが降ってきたでしょうか? それをよく思い起こし、前に進みましょう。民は七日ごとに安息日を守りつつ、前進しました。日々天から降る恵みを味わいながら、主の日の礼拝を大切にし、日々前進していく。本日の御言葉は、当たり前すぎる信仰生活についてのメッセージを送っています。