【長子と言われれば長子】(2024年6月2日)
〈出エジプト記12:43-13:16〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
この日(51)とは、過越祭の規定を主が設けられた日のことです。約束の地へと旅立った最初の日に、主は過越祭を代々にわたって守るようにと指示されました。ペトロも主と出会った日に、「あなたは人間を取る漁師となりなさい」とのご指示を受けました。私たちはそれぞれ救われた日に、どんなご指示を主から受けたでしょう? 個々人に対する主のご指示は、本人以外には分かりませんし、本人さえ気づいていない場合も多いでしょう。しかし、皆に等しく送られていた主のご指示の一つを、今日の御言葉から学び直すことができます。イスラエルの民が、約束の土地に旅立つ日に受け取った指示は、過越祭に関する指示です。それはいわば礼拝に関する指示でした。私たちも救われた日に、礼拝のご指示を受け取っていたはずです。毎週日曜日の特定の時間に、礼拝が行われる場所で、賛美と祈りをし、説教を聞き、聖餐式にあずかり、といった具体的な指示を、そして最も基本的な指示として、礼拝を守り続けなさいといったご指示を、主は当然送っていたに違いありません。今さらではありますが、その指示を大切に聞き取りましょう。イスラエルの民は、本当に初子をいけにえとして捧げていたわけではありませんが、なぜ長子かというと、長子が一番大切な存在と位置づけられていたからです。でも長子以外は、主に捧げられないということでは絶対にありません。なぜなら、ペトロには兄アンデレがいたはずです。ゼベダイの子ヤコブとヨハネも、どちらかは弟でした。イスラエルの王ダビデは末の子でした。私たちは皆、主に献げられるべき存在です。そして、人々の中でもこの私たちが主に献げられるのは、私たちが尊い存在だからです。すると私たちはいわば、主によって、尊い長子とさせられているということでもあります(ヘブ12:23)。ソロモンは、本物の母親かどうかは関係なく、自分でそう判断した方を実の母親と見なしました(王上3:16)。当然ですが、実際にそれぞれの家庭で長男か否かは全く関係なく、もし、主が私たちのことを、ご自身に捧げられる尊い存在と見なしてくださるならば、私たちは皆長子なのです。