【おんどを取る】(2024年6月16日)
〈出エジプト記14:19-15:21〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
海の水は洗礼の水の象徴であり、私たちの一番の敵を滅ぼしてくれるものです。その敵とは、追い払おうとしてもどこまでも追ってくる、私たち自身の罪。一方エジプト軍は剣と鎧兜、戦車を備えていました。鉛のように重いそれらが命取りとなりました(10)。私たちも、バプテスマの水に潜ろうとするならば、剣や鎧、すなわち争いの心や、目に見える支えとなるものを外していかねばなりません。むしろ無一物となって(エフェ4:31)水の中に潜りましょう。ヨハネも、罪に重い人々が水に溺れて滅んでしまわぬために、あえてきつい言葉をかけました(マタ3:7)。モーセが、旧約の中で最大と呼べる賛美の歌を歌ったのは、最大の奇跡がなされた後でした。しかし、この後すぐ苦難が押し寄せます。ヨハネもこの喜ばしい歌を聞いた後、災いの波が押し寄せました(黙15:6)。救われた後の私たちにも苦難が待っています。では、救われたことを賛美して歌うのは無駄なのか? いえ、救われたことを感謝して歌うことは、これからの苦難を乗り切るために絶対に必要なことです。救われたことを心から感謝して歌えば、力が涌き、士気は高まり、これから降りかかる災いに耐えていけるでしょう。小太鼓を手に取って踊ったミリアムは、女預言者と言われています。一体どんなことを預言したのか? 彼女がしたのは、民の先頭に立って音頭を取ること。私たちにも、聖書に記された歌を、音頭を取るかのようにして歌うことが求められています。そうすれば預言者になれます。彼女がそれだけのことをして女預言者と呼ばれたように。とはいえ、心得もないのに楽器を演奏すれば、騒がしいどら、やかましいシンバル(一コリ13:1)。彼女が音頭を取ったのは、民を励まし、造り上げるためであったに違いありません。そもそも預言とは、人と教会を造り上げるためのもの(一コリ14:4)。私たちも自分なりの音頭を取っていきましょう。自分の救われた経験が節となり、自分の信仰が太鼓の代わりをします。自らの信仰、希望、愛を美しく奏でて、人々を造り上げるように音頭を取っていきましょう、立派な預言者となるために!