【寝ずの番】(2024年5月26日)
〈出エジプト記12:29-42〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
イスラエルの民は、エジプトの地から早く出て行きたかったはずですから、「出て行ってもらいたい」と言われたのは、まさに好都合でした。私たちも、もし、自分を奴隷のように扱う人たちがいるとして、その人たちが「早く出て行ってもらえないか」と言ってくるとしたら、それはどんなに好都合でしょう。しかし、彼らに対し、どうすれば、早く出て行ってもらいたいとの思いにさせることができるでしょうか? イスラエルの民は、主がエジプト中を過ぎ越されるのをひたすら待っていました。そして、いつでも旅立つことができるように準備し、自分たちを導き出してくださる神に感謝し、祈っていました。これは、私たちからす見れば礼拝でした。私たちも礼拝を守っていれば、悪霊の方から出て行ってもらいと願い出てきます。さらには、罪という奴隷の地より解放されるのです。主は寝ずの番をされました。どんなお顔で、寝ずの番をされていたのでしょう? ぐすぐすするなと、いら立っているお顔か、あるいは、敵をことごとく滅ぼしてやろうと怒っているお顔か? 主イエスも、寝ずの番を務めてくださいました(マタ26:36)。民を救い出すために寝ずの番をされた際の、神のお顔については何も記されていません。しかし、主は憐れみ深いお方ですから、罪のない子を滅ぼさざるをえなかったとしたら、そして、致し方なく私たち罪人を滅ぼさねばならなかったとしたら、まさに汗が血の滴るように落ち、苦しみもだえながら(ルカ22:44)、寝ずの番をされていたのではないでしょうか? 夜にたとえられるこの世(イザ21:11)にあって、主は今も寝ずの番をされています。そのことに感謝して、私たちも寝ずの番を務めましょう(42)。しかし、神は眠ることのないお方ですから、私たちによって、寝ずの番をしてもらう必要などありません。ですから、私たちが主のために寝ずの番をするのは、主を見守るためではありません。むしろ、私たち自身、苦しまれている主のご様子を、しかと見つめるためです。主が私たちのために必死に祈っておられるお顔を、私たちは目を覚まして、はっきりと見なくてはなりません!