【先取り】(2024年5月19日)
〈出エジプト記12:14-28〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
イスラエルの民は過越の夜、いけにえの小羊とともに、酵母を入れないパンを食べました。酵母を入れなかった理由としては、時間がなく急いでいたことと、そして、酵母を腐敗物と見なしたからです。主の御業がなされる場において、腐敗を連想させるようなものがあってはなりませんし、ましてや自分自身が腐敗していてはなりませんでした(レビ20:26)。私たちも過越祭を祝うに当たり、悪意と邪推という名の酵母があってはなりません(一コリ5:7)。私たちにとって、過越祭はイースターに当たりますが、七日毎の主の日は、主の復活を祝う日として定められました。ですから、日曜日は過越祭の縮図です。主の日には、悪意を捨てなくてはなりませんし、主の復活を祝う日に、私たち自身腐敗していてはなりません。イスラエルの民が過越祭を本格的に祝うようになったのは、後の時代です。モーセは、何も急いでいたこの日に掟を設けるのではなく、荒れ野に入ってからそうすればよかったとも思います。しかし、彼らがまだエジプトを出る前に掟が出され、そして民は神の御前で礼拝しました。(27)。主も救いの先取りとして、聖餐式(=礼拝)を制定されました(マタ26:26)。しかし、その規定を設けられたのは、復活された後ではだめだったのでしょうか? 主は復活された後、弟子たちと食事をされたのですから、その時ではだめだったのでしょうか? なぜ、復活の出来事が起こる前に、それを記念するようにと命じられるのでしょう? それは、主の復活を祝うこと自体が、さらなる救いの先取りだからなのです。私たちにとって、永遠の命といった救いは、まだ成就していません。イスラエルの民も、贖いの出来事が起こる前に、それを代々にわたって記念するように命じられ、そして神を真剣に礼拝しました。それは信仰者の姿そのものです。信仰者は、すでに起こったことを元に信じるのではありません(ヘブ11:1)。主は私たちに対して、救いの先取りとして、代々にわたって主の日の礼拝を守るように命じられています。信仰によって後の日の救いを確信し、感謝を先取りして、神の御前に深くひれ伏しましょう。