メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【過ぎ越さないで】(2024年5月12日)

〈出エジプト記12:1-13〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 主の過越には、家族ごとに一匹の小羊が用意されなくてはなりませんでした。それはまるで、一つの家族にたとえられる教会ごとに、神の小羊が備えられていなくてはならないかのようでした。しかし、羊ならばどんな羊であってもよいわけではありません(5)。傷のない一歳の小羊でなくてはならないのだとしたら、イスラエルの民に求められていたのは、羊の群れを大切に養うことでした。まず、いつ生まれたのかを正確に覚えている必要があり、また、どこかでケガをさせてはなりませんし、ましてや自ら羊を傷つけてはなりません。神が求めておられるのは、きれいな小羊ではなく、私たちの正義と憐れみです。たとえば、群れを大切に養い導く、といった心掛けです。私たちの教会も、神の小羊を用意し(一コリ5:7)、そしてその小羊を大切にしていかなくてはなりません。まるで動物の小羊の成長と体調を毎日管理するかのように、キリストのことを毎日気にかけ、そして決して傷つけてはなりません。たとえば、教会の中に異端を持ち込んだり、あるいは仲間割れをしたりすれば、キリストを大いに傷つけてしまいます。祭りを祝う姿勢は、祈りの姿勢そのものです。私たちは祈る際に、「何々でありませんように」と祈る仕方と、「何々でありますように」と祈る仕方があります。もし、災いが過ぎ去るようといったように祈るとすれば、神の裁きの側面を見つめて祈っていることになるのかもしれません。イスラエルの民は、どちらかというと、そういった祈り方にウェイトを置いていたのかもしれません。そしてそれが、過越祭といった、一番大きな祭りを祝う姿勢によく表れています。イスラエルの民は、裁き主が通り過ぎるのをじっと待ちながら、過越祭を祝わねばなりませんでした。しかしそれは、もはやすこぶる古い祝い方です。私たちにとって、そういった古い祝い方こそ、過ぎ去っていかねばなりません(二コリ5:17)。なぜなら、復活の主は、過ぎ去っていかれるようなお方ではないのですから。私たちは、復活の主が私たちの前を過ぎ越さないで、いつまでもとどまってくださる(マタ28:20)ようにと願いましょう。


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