【本当はできるのに】(2024年4月28日)
〈出エジプト記8:15-9:21〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
ファラオは、モーセが行った奇跡を目にして、一旦はイスラエルの民を去らせようとしますが、すぐに元に戻ってしまいます。そのことを繰り返すことによって、ファラオの心は次第にかたくなになっていきました。少し似ている表現として、こう言われています。「心を固く保ちなさい」(ヤコ5:8)。心をかたくなにしてはならない一方で、心を固く保たねばなりません。その固さの性質はまるで違いますが、固くなっていく方法は、それぞれ似ているのかもしれません。ファラオが次第にかたくなになっていったのは、神のお招きに心引かれても、すぐに引き返す、といったことを繰り返したからでした。一方で、心を固く保つ、つまり信仰に堅く立つためには、別の意味での繰り返しが求められます。それは毎週の礼拝そのものです。毎週のように御言葉に聞き、芽生えた悪の根をその都度もぎ取って行くことによって、固い地盤ができ、信仰に堅く立つことができるようになります。さて、主は、一回の災いでファラオを滅ぼすことが、逆に言えば一回の奇跡だけで、イスラエルの民をエジプトから去らせることがおできになりました。しかし主はあえてそうなさらなかった。それは、主の御名が全地に行き渡るためでした(15)。さらに、主が何度も災いをもたらされたのは、ご自身忍耐されていたからなのです。私たちは、主が私たちの思い通りには動いてはくださらない時、信仰をつい捨ててしまいます。しかし、主はおできになるにもかかわらず、そうなさらないと信じましょう。これは、主イエスが確信しておられたことです(マタ26:53)。忍耐しているのは自分だけではありません。主も同様です(二ペト3:9)。主は、一刻も早く救いの御手を差し伸べたいとお思いになっているにもかかわらず、それではためにならないと、あえて御手を差し伸べず、忍耐されていることを忘れず、私たちも忍耐を貫きましょう。