【怠け者だから礼拝するのか?】(2024年3月24日)
〈出エジプト記5:1-6:1〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
私がまだ学生だった頃、ゼミの先輩を教会に誘ったことがあります。その人はこう答えました。「自分も教会とかに行ってみたいけれども・・・そういったものに頼る自分が嫌だから・・・」。その方によると、教会に通ったりするのは、弱い人たちがすることだったのです。しかし、私も最初はそういった思いでした。「教会には行ってみたい、洗礼も受けてみたい、でも、何かにすがる自分がどこか恥ずかしい。人からどう思われるのだろうか・・・」と。ファラオもそういった考えを持っていたようです。いけにえを献げにいく、つまり、礼拝を献げにいくことを願い出たイスラエルの民に対し、こう言い放ちました。「お前たちは怠け者だから、主に犠牲を献げに行かせてくださいなどと言うのだ」。私たちはどうして礼拝に集まるのでしょうか? 怠けている(=弱い)から礼拝に通っているわけではありません。「主を畏れることは知恵の初め」(箴1:7)。神を礼拝することは、最も賢いことなのです。しかし、世間からはそう思われてはいないでしょう。祈ることは、生産性がまるでないように映っているかもしれません。私たちは、「世間の人たちは、私たちが考えているのとは真逆に考えている(人たちもいる)」といったことを、常に覚えておくべきなのかもしれません。人間的に考えれば、神を礼拝することは愚かなことであり、弱い人がするようなことであるる。そしてそう思われていることを、自分はしているのだ、ということを覚えておくようにしましょう。パウロも、世からすれば愚かなことを自分は信じ、その道を選んだのだということを、常に忘れませんでした。(一コリ15:12)。神がいないのだとしたら、教会に行くことは意味もなく本当に愚かなことです。しかし、自分は固く信じてその道を選ぶのだ、といった決意を常に持ち続けていくことが、自分の信仰を保つことにもなるのだと思います。