【出国に際して好意を得る】(2024年3月10日)
〈出エジプト記3:16-4:17〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
ファラオは、かたくなに出国を阻止しようとしますが、民衆の多くはそうではなかったようです。イスラエルの民はエジプト人の好意を得、お別れにプレゼントを色々もらいます。私たちも主に従うとなれば、奴隷の地より約束の地へと出国することになります。しかし、無一物で旅立つのではありません。元いた場所で得た賜物、知識を持ち出し、それを伝道のために用いることができます。また、約束の地に戻る時、世が自分を応援してくれているような気持ちになるとしたら、どんなに励まされることでしょう。民がバビロンから帰還する際に、植物も動物も彼らを応援してくれていました(イザ55:12)。実際は、帰還の道には茨が生え、荒れ野が横たわっていたはずです。しかし、意気揚々と帰還した民としては、全てが自分たちを応援してくれている気持ちになっていました。私たちも約束の地に上る際に、全てが自分を応援してくれているように見えなくてはなりません。少なくとも、世と対決姿勢を取ってはなりません。自ら世に好意を抱き、世が救われることを願わなくてはなりません。主に従うことは、世の人に仕えることですから、世がいとおしく感じられ、世が自分に「どうか導いてくれ」と助けを求め、自分を必要としてくれているような気持ちにならねばなりません。主は、ファラオにしるしを見せよとお命じになりました。それは、彼がよこしまで神に背いた人だったので、しるしを欲しがっていたからです(マタ12:39)。一方、神の民は、御言葉で導かねばなりませんでした。モーセ自身それを知っていたのでしょう。だから「自分は口が重い者で――」と言ったのです。しかし、モーセですら、自分一人では無理と感じていたのですから、私たちはなおさら一人では無理です、神の民、すなわち教会を導いていくことなどは。では、教会を導いていくのは誰か? 教会です! 教会とは、一人で導けるものではありません(マタ18:20)。教会を導くことができるのは、教会のみです。教会を導いていけるためにも、私たちは自ら教会に属そうではありませんか。