【何番目の娘だったのか?】(2024年2月25日)
〈出エジプト記2:12-25〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
モーセは同胞のために復讐を遂げました。しかしそれは過剰防衛でした。結果的に、仲間からも敵からも評判を貶め、ファラオから命を狙われることとなりました。同胞を助けるためにと敵を攻撃しても、これまでの同胞が同胞でなくなり、新たな敵が生まれるだけです。モーセ自身、罪悪感を覚えていたようです(15)が、何を恐れたというのでしょう? 強さでいえば、エジプト人よりも弱い同胞をとっちめればよいだけではありませんか? しかし、モーセは、同胞の言葉に恐れ、同胞が自分をどう思っていたのか不安でなりませんでした。私たちも、主の体に属する兄弟、とりわけその頭に嫌われることを恐れましょう。モーセは、おそらく七人の娘の一人を嫁にします。では、ツィポラは何番目の娘だったのでしょうか? 長女か、末娘か、見た目が一番きれいな娘か? 七という数字は、聖なる全体を表します。この数字に、優劣や順番があってはならないのです。ヨハネは幻の中で、七つの教会を見ましたが、七つの教会に優劣はなかったし、あるとすれば、その教会に属する民が、どんな生活を送っていたかで決まりました。主は、すべての教会に平等に接せられ、ご用のために用いてくださると信じます。一方で、イスラエルの民は、重い労働に耐え、助けを求める声を上げていました。しかし、その声は神に届きませんでした。ファラオが死んだ時、声が天に届いたと記されています。必死の嘆き声が天に届くのが、何かのせいで妨げられていたとしたら、それは、民の心を、あるいは精神と魂とを支配していた王ファラオがまだ生きていたからです。このファラオは、正義を虐待し、乱暴で身勝手で、残虐で、そして、神の御恵みを思い出せなくさせる忘恩の支配者(出1:8)。その支配者が、わたしたちの心で支配権を握っているのだとしたら、ぜひともその支配者には、死んでもらわねばなりません。忘恩という支配者が死んではじめて、神の御憐れみを思い出すことになり、そして神におかれても、わたしたちの叫び声に聞かれ、それに応えてくださいます。