メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【抱き直して】(2024年2月11日)

〈出エジプト記1:22-2:10〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 ファラオは、ヘブライ人の男の子を殺せとの命令を下しました。だとしても、両親が子供を見殺しにするといったことは、決して罪のないことではありません。モーセの両親は、強制されたからとはいえ、自分の子を犠牲にしようとしました。「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」(王上3:26)と願い出た女性ならば、自分の身を犠牲にしてでも、我が子を生かす方法を考えたかもしれません。しかし思わぬことに、この家族に御恵みが降ってきます。我が子を捨てざるをえなかった母親にも、我が子を、事実上の母親として自分の手で育てることになったのです。しかし、モーセの両親、とりわけ母親は、はたして耐えられたのでしょうか? 一体どんな気持ちだったのでしょう? 自分が捨てた命を、再びその腕に抱くことになった時は? もちろん、母としても、帰ってきた我が子に喜びは一しおだったでしょう。でも、喜び以上に、再び我が子を抱いた時、我が子を捨てようとし、実際に一度捨てたのだといった強い罪悪感に苛まれたことでしょうし、苛まれなくてはならなかったはずです。そして強い罪悪感とともに、これまで以上に、我が子を大切にしていったことと思います。私たちも大切な命を捨てました。それは我が子ではなく、むしろ、自分を育ててくださった親のような存在を捨ててしまったのです。しかも自分の命惜しさに。しかし、一度捨ててしまった命が再び帰ってきたのです。私たちはそれを喜びをもって受け入れますが、それとともに、深い後悔をもって、胸に抱き直さねばなりません。自らの命惜しさに、いえむしろ、自らの欲望のために、自ら捨ててしまった神の独り子の命を、主が自分の罪のせいで奪われる以前よりも、なおさら大切にしなくてはなりません。「お前の弟は死んでいたのに生き返った。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15:32)。よって、私たちも、当たり前のことをしましょう! 自分の罪のせいで捨てられてしまった主が、復活されて帰ってきたのですから、以前にもまして主を愛しましょう!


メッセージ一覧に戻る