【恥じられないためには】(2024年1月7日)
〈ルカ福音書9:17-27〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
大いに食べて満腹した「すべての人」(17)に、果たして主ご自身は含まれていたのでしょうか? 主が一番に望んでおられることは、ひたすら御言葉に聞くことです(ルカ10:42)。私たちにとって、五千人の給食の物語は、とてもハッピーな物語です。しかし、この時の主のお気持ちを考えたことがあったでしょうか? 主は果たして満たされていたのか? 必死に救いの御言葉を語られていたのに、お腹が減りましたからそろそろ解散を、などと言ってこられたからには。そこで、主は一人になって祈っておられたのです。「人々はいったい、私のことをパンで満たす人だと思っているのではないか?」という悩みを祈りにしていたのです。だからこそ、主はこの後、厳しいことをお伝えになりました。「日々、自分の十字架を背負って――」と。そもそも十字架は、並大抵の拷問道具ではなく、そこに掛けられた者を殺すための道具でした。よって十字架を背負うとは、苦難を背負い、悲しみに耐える以上のことを意味します。すなわち、自分自身を死せることです。私たちがそれぞれ負うべき十字架は、私たち自身の古き人を、日々脱ぎ捨て、さらには、日々死なせてしていくためのものです(コロ3:9)。具体的に言うと、怒り、憤り、悪意、そしり恥ずべき言葉を捨て(同8)、さらには、それらを死なせて葬ることです。主が再びやって来られる時までに、まだ死なない者(27)だったとしたら? つまり、悪意や敵意をまだ持ちながら、古き人のまま生きているのならば、主が再臨され、神の国が訪れても、そこに入ることはできません。御国が実現しようとする際に、決して死んではいない者であってはなりません。御子がやって来られる前に、必ず古き人を死なせておくことにいたしましょう。そうすれば、やって来られた御子を見ても、決して恥じることはありませんし、またやって来られた主も、私たちをご覧になって、恥じられることは絶対にありません。