【別の村では】(2024年1月26日)
〈ルカ福音書9:46-62〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
主が従いなさいと命じられた相手は、ことごとく失格者でした。三人とも、主の弟子となる条件を満たさず挫折します。最初の人は調子のいい人、偽善者です。次の人は、なんだかんだと言い訳し、すぐに従わないかたくなな人。三番目は、この世に未練があり、志が中途半端な人。それにしても、こちらが恥ずかしくなるほどに、選んだ相手が悪かったのはなぜでしょうか? 他の人はどうだったのでしょう? 四番目の人は、五番目の人は合格したのでしょうか? おそらく、この村の人は皆、不合格でした。主はエルサレムに向かわれる途中でした。そして、サマリア人に拒まれたため、「別の村」に入られました。よって、この村は、予定にはなかった村だったはずです。言い替えれば、この村は、エルサレムへの道上にはない、その道から外れたところにある村でした。主は別の村に入られた――それはあたかも、エルサレムに向かう十字架の道から外れた場所に入られたかのようです。エルサレムに向かわれる主の道上ではないところには、主のまことの弟子はそもそもいません。よって、たとえ百人に「私に従いなさい」と呼びかけられたとしても、皆がそれに応えず、不合格だったと思います。私たちも、主の十字架の道を歩むのをやめ、そこから一歩外れるやいなや、ここに登場する人たちのように、偽善がたちどころに面に現れるはずです。たとえば、その気もまだ完全に固まっていないのに、主に従う決意を表明したり、あるいは、中途半端な姿勢のまま主に従おうとしたり、あるいは、この世に未練を残したセリフを言ったり。そういった事態に陥ってしまうのは、自分自身、主の十字架の道をまっすぐに歩んではおらず、そこから外れたところで暮らしているからです。主の十字架の道をまっすぐに歩んでいないとしたら、偽善、怒り、妬みなどといった悪が自分の中に入り込みます。主の十字架の道を歩んでいる人にかぎって、主に従うことができます。