【迷いたくとも迷えない道】(2024年12月15日)
〈ルカ福音書15:1-10〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
羊はどうして迷い出てしまったのでしょう? 他の羊たちと仲良くできず、他の羊たちからいじめられたから? 探しにきた羊飼いは、羊に何と声をかけたのでしょう? 「どこを歩いているのだ」「私が迎えにきたからもう大丈夫だ」といったところでしょうか? 羊は従順で、頭の良い動物かもしれませんが、所詮理性のない動物。しつけが行き届いていても、なぜ迷い出てしまったのかと問われれば、自分ではその理由さえ分からなかったでしょう。実は、誰の責任で迷い出たかははっきりしています。主はなんと責任感の重いお方なのか! 「見失った」。迷い出たのは羊。しかし、羊飼いは己の責任ととらえています。物心ついていない子供が行方不明になったり、事故にあったりして、そしてその子を無事見つけたら、親はなんと言うでしょう。「どこをほっつき歩いていた?なんで離れた?」 いえ、「父さんが目を離してごめんね、もう目を離さないからね」の方が正しいはずです。よって羊飼いも、さ迷い出た羊を見つけた時、言ったはずです。「私が見失ってしまってごめんね」と。私たちは、神のお立場からすると、理性のない羊のような存在です。私たちは生まれながらにして愚かであり、道を迷い出ます。主が十字架におかかりになったのは、私たちがそういう存在だからです。主は本当に責任を感じておられたはずです。「神よ、この人たちがあなたに背いているのは、私の監督責任です」と。十字架の主は、私たちに叫んでおられます。「私があなたを見失ってしまったことを許しておくれ」「私があなたを、きちんと立派に育てることができずに許しておくれ」と。主の十字架こそが、主に手を引かれて帰っていく羊が歩むべき道。この道を歩めば、もうさ迷い出ることはありません。愚かなる者は迷うことなし(イザ35:8)。これは、「たとえ愚かな者であっても、主が敷いてくださる道であれば、迷うことはない」という意味。しかり、たとえ愚かなままの私たちであっても、迷うことはありません。迷いたくとも迷うことはできません。主が共に歩いてくださるのですから、どうして道を迷うことができるでしょうか!