【涙が枯れるまでに】(2024年11月3日)
〈ルカによる福音書12:41-53〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
主はなぜ答えられなかったのでしょう(41)? 弟子たちのため、それとも皆のため? うまくかわして別の話題に切り替える、といった印象を受けなくもありませんが、「それはあなたがた自身、よく考えてみなさい」という合図だったのかもしれません。聖書において、私たちとは関係ないと思わせる箇所はたくさんあります。私たちが、ある旧約聖書の言葉を取り出して、「これらの言葉は私たちのためですか。それとも当時の人のためですか?」と主に質問すれば、どう答えられるでしょうか? 聖書の言葉は私たちのために書かれたものです。そして、私たちのためであるということは、皆のためでもあるということです。なぜなら、すべての人が福音によって招かれているのですから。「分裂」とはどういう意味なのでしょう? 主がやって来られなければ、全ての人は滅びる定めにありました。そういった意味では皆平等であり、分裂していませんでした。主が来られることによって、信じる人は救われるようになりました。ここに分裂が生じました。よって、主が言われる分裂とは、肯定的な意味での分裂です。「その火が既に燃えていたら――」。火が投じられれば、滅びる者はその時点で確定します。しかし、主はご自身の働きによって、世界を分裂させたくはないとのお気持ちを露わにされます。優れた教師はクラスの生徒を、こちらは優等生、こちらは劣等生と分けるのを嫌うものではないでしょうか? なぜなら、皆が大切な存在で、皆が優等生になってほしいからです。主がご自身の目で、世界が二分されるのを確認したくはなかったのは、皆が救われてほしかったからです。主の御手に火が燃えています。しかしまだ燃え盛ってはおりません。なぜなら、炎の勢いを削ぐほどに、水が降り注がれているからです。それは主の涙(マタ23:37)。主は今も民を集めようとなさっており、今も泣いておられます。私たちが悔い改めないのを。涙が御目からふんだんに溢れていて、大地に今にも燃え移ろうとする炎の勢いを弱めています。しかし、主の涙もいずれは枯れる。ですからその前に、悔い改めて主の御許に集められましょう!