【その時はいつ?】(2024年11月24日)
〈ルカ福音書13:22-35〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
救われる者は少ないのでしょうか? この問いに、またもや主は直接答えられません。その代わりに、「狭い――」。救われる者は少ないと感じざるを得ません。しかし、主は収穫は多いとも言われました(マタ9:37)。収穫が多くとも、実を取る人がいなければ、収穫はだめになります。働き人がいれば収穫は収穫となります。よって、救われる人が少ないのは確かかもしれませんが、救われる可能性がある人自体が少ないとは、主は言われてはいないのです。大勢が救われるよう努めれば、救われる者は自ずと多くなるはずです。狭い門については、視点を変えて、いえ姿勢を変えて考えましょう。狭い門であれば、体を横にしたり、お腹を引っ込めたり、這いつくばったりして入るものではないでしょうか? よって、皆が身を低くして入ろうと努め、大勢が、いえ全員が狭い門に入って救われたいものです。一緒に食べたり飲んだりしたとは、「あなたと契約を結んでいた」という意味です。聖餐式とは、いわば神と私たちとの契約です。教えを受けたとは、説教を聞いたという意味です。説教と聖餐――これは、プロテスタント教会が大事にする二本柱です。御言葉の解き明かしを通して救われ、聖餐にあずかることによって救いを確信します。しかし、自分の身をよくわきまえて聖餐にあずからなければ裁きを受け(一コリ11:27)、説教を聞くにしても、信仰をもって聞かなければ意味がありません。その時(35)は大分先という感じを受けます。しかし、主は時間的なことを言っておられるのではありません。「見る」とは、心の目で見ること(エフェ1:18)。「主の名に――」は、心の口で言うべきことです。心の口を通して告白をする時、私たちの目の前に、主はお姿を見せておられるのではないでしょうか? 一年後には皆が一歳年を取ります。しかし、主を見る時は、それぞれ共通してはおりません。今すぐにでも主を見ることができる人もいれば、永遠に見ることができない人もいます。主を心から告白できる時こそが、主を見る時です。主を見る時が、今日この時でありますように!