【腰はまっすぐになった】(2024年11月17日)
〈ルカ福音書13:10-21〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
若い時から背中が曲がっている私は、以前はよく、「自分の曲がった背筋をなんとか直したいものだ」と思っていました。最近では「大分腰が曲がってきた妻を、誰かなんとかしてくれないか!」と願うばかりであります・・・・・・しかし、ここに出てくる女性は、年齢のせいで腰が曲がっていたのではなく、完全に病気のせいです。私たちは、たとえ信仰を持っているとはいえ、病が癒されるとは限りませんし、信仰を持っていない人と比べて、体の病にかかりにくいということもありません。そこでとらえ方の問題ですが、確かに主は、昔大勢の病人を癒されたことはすばらしいけれども、今の自分が癒されなければ意味がないと考えるか、それとも、病の癒しよりも大きな癒しがあり、その癒しを前にすれば、体の病の癒しは小さく、もはや癒やされたのも同じだ、つまり、体の病の癒しよりもまさるものがある(ルカ11:31)と考えるのか。しかし、ここで立ち止まって考えてみたいのです。そもそも腰が曲がった病気とは、ただの体の病気ではない気がします。つまり、曲がったとは、罪と邪悪を象徴するように思われます(ルカ3:6)。それは、サタン(16)の象徴である蛇が、くねくね曲がって進むことからも分かります。実のところ、この女性は、体の病というよりかは、サタンの支配下に置かれ(おそらく生まれてから十八年間)、霊の病にかかっていました。腰が曲がったまま、どうしても延ばすことができないのは、サタンに支配され、また己の罪の重みのせいで、まっすぐに立てない、つまり、清く正しく生きることができなかったからです。そうしますと、この女性は私たち自身のことでもあります。私たちは、どうしても自分の力では腰をまっすぐに伸ばすことができない、つまり、清く正しく生きることはできないのです。それは、サタンと罪の力に縛られているからです。しかし主は、そのような私たちを憐れに思ってくださいます。自分の力で正しく生きることができない私たちに、主は御目をかけ、憐れんでくださり、天に向かってまっすぐ立つ者へと変えてくださいます。