【思いがけない時に】(2024年10月27日)
〈ルカによる福音書12:22-40〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
もしここに、思い悩んだ末、絶望に陥っている人がいるとして、主ならば、「思い悩むな」と言われるでしょうか? しかし、主は、目の前で思い悩んでいる人たちに、このお言葉を告げられたのではありません。少なくとも、絶望に陥るほど思い悩んでいた人はそこにはいなかったでしょう。絶望に陥っている人であれば、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたでしょうから。よって、主は、実際に深く思い悩んでいる人に対しては、「思い悩むな」とは言われないのではないか? なぜならそう言ってしまえば、その人を切り捨ててしまうことになるからです。むしろ、主は、思い悩まないための予防策として、私たちに信仰を求めておられます。立派な信仰を持っている人には、褒美としてあらゆる恵みが与えられる(31)ということではありません。信仰によって、御恵みを心から感謝して受け取る時、たとえ小さなものであっても、それは宝と映ります。霊的に満ち足りていない人は、どんなに甘い酒を飲んでも満足せず(イザ24:9)、満ち足りている人は、たとえ水であっても甘く感ぜられます(ヨハ2:9)。主は思いがけない時に(40)訪れてくださいます。その時、目を覚ましていなければ、鞭打たれます。しかしそれは、私たちを改心させるためなのかもしれません。弟子たちが眠っていた時(ルカ22:45)、彼らにしてみれば、思いがけない時に主が戻って来られたのではないでしょうか? そして、もし主が戻ってきてくださらなかったとしたら、彼らはずっと眠っていたままで、主が逮捕されたことに気づかなかったでしょう。私たちが眠っている時、主がやってこられるのは、私たちが眠り続けてしまわないため、大切なことを見落としてしまわないためです。弟子たちが一番思い悩んでいた時は、主が奪い取られ、部屋に閉じこもっていた時です。そこに復活の主はやってこられ――それはまさに思いがけない時でした――ました。主は、深く思い悩んでいる人の前にも、思いがけない時に帰ってこられます。そして、起きよ、光を放て(イザ60:1)と呼びかけ、実に思いもよらぬ方法で、私たちを立ち上がらせてくださいます。