メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【蓄え可能なもの】(2024年10月20日)

〈ルカによる福音書12:4-21〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 「神の前に豊かにはならない」(21)。人のために富を蓄えて施せば、神のみ前に豊かになるのでしょうか? 神のみ前に豊かになるにはどうすればよいのか? それは、主のたとえ話に出てくる金持ちとは、逆の人になることです。この金持ちは、他人に施すことなど眼中になく、自分のために蓄え、将来に対する楽観的な態度でおり、勤勉でもありませんでした。よって、これとは逆の生き方をすれば、神のみ前に豊かになることができるのでしょう。でも、神のみ前に、豊かに積んで蓄えることができるものとは、どんなものなのでしょうか? この金持ちは、その命とともに、蓄えたものが一瞬に奪われてしまいましたが、大勢がそのような憂き目に遭わなければなりません(コヘ2:21)。どんなに施しをし、自分のためではないことのためにどんなに働いても、罪を犯せば一瞬の内に奪われてしまうものなのかもしれません。信仰者として、何らかのことをご用のためにしてきた自分が、あることをきっかけに倒れてしまうと、それまで神のみ前に積んできたと自分では思っていたものが、全て奪われてしまった思いになるものです。しかし、信仰、希望、愛は、神のみ前に残ることができるはずです。「この三つはいつまでも残る」(一コリ13:13)。どこに残るかといえば、神のみ前です。信仰、希望、愛は、神のみ前に蓄えることができ、残すことができます。少なくとも、この三つは一瞬には消えません。信仰、希望、愛を、神のみ前に蓄えることにいたしましょう。この蓄えがある程度があれば、少々のことではなくなりません。つまり、少々のことではつまずきません。パウロも幾度も試練に遭い、つまずきかけましたが、なぜつまずきかけただけで、つまずきはしなかったのかというと、彼にはこの三つの蓄えが、神のみ前にたくさん積んであったので、信仰者としての生命がすぐには消されず、生涯神のみ前で生き延びることができたのです。私たちも、この貯蓄を普段から心掛けていないと、いざという時にすっからかんです。この三つを普段から神のみ前に蓄えることができるならば、たとえつまずきかけても、つまずきません。


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