【ぶどうの花は咲いたか?】(2023年8月6日)
〈雅歌7章〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
若者はおとめの全てを愛していました。しかし、冷静になって考えてみましょう。おとめの美しさは、客観的なものだったのか? ピノキオみたいに高すぎる鼻は、かえって笑いものになります。池、ぶどうの房、レバノンの塔、カルメルの山――これらを部分として顔をつくり、体を組み立ててください。何と滑稽な人が出来上がることでしょう。おとめは、若者にとってだけ美しい人であったのかもしれません。そしてそれは、ひとえに愛の力です。愛は、美の価値観を変えてしまいます。私たちを愛してくださる主にとっては、私たちの欠けさえも、美しいものと変わっているのかもしれません。しかし私たちは、「主は私の弱いところをも愛してくださる」といった慰めに浸りがちです。おとめと若者は相思相愛であり、おとめも若者のすべてを美しく感じていました。では私たちは、主の何もかも愛しているでしょうか? 自分の罪を責める言葉は、激しい呪いのお言葉は? そういったものを、聞かなかったことにはしていないか? あるいは、好きな御言葉だけを覚えてはいないか? 私たちと主とは、お似合いのカップルでなくてはなりません。一方的な愛にとどまってはなりません。正直に申せば、主を愛すよりも主から愛されたい。ですが雅歌のメッセージはこれと違います。どうだったのでしょう、花は咲いていたのか? きっと開いていました。なぜならそれは、愛の花が咲いていたということなのだから。そして、愛の花は二人で咲かせるもの。私たちが、主の全てを愛することができないとしたら、野に出かけてみても、花は一輪も咲いてはいません。逆に、主の全てを愛していれば、きっと一面に咲いているはず。ぶどうの花であれ何であれ、それらは皆、私たちと主とが、互いに愛を献げ合った末に咲く愛の結晶! この私は主の全てを愛し、美しく感じているのか? その答えを見つけてから、確かめに出かけましょう、花は咲いたかどうかを!