メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【知らぬ間にわたしは】(2023年7月30日)

〈雅歌6:1-7:1〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 おとめたちは最初、自ら若者の居場所を教えました(1:8)。立場が入れ替わっています(1)。パウロは、成熟した信仰者に対して、基本的な教えを教え直すことはしません(ヘブ6:2)。おとめたちも同様です。「私たちは何と教えたでしょうか?」 主がいます場所は、最初に主ご自身が教えてくださったことです(ヨハ1:39)。主を見失った時、御言葉は問いかけてきます。どこに主はおられるのか? 何と教わったのか? 思い出し、その場所へと戻りなさい、と。おとめが向かった先は、羊小屋ではなく、くるみの園でした。くるみはカナンの地が名産とする嗜好品です(創43:11)。カナンの地は、神の民が住まう場所。おとめはやはり前回と同様、主が民を養う場所へと向かいます。アミナディブの車――その実態は不透明です。おとめはまるで知らない車に乗せられたかのよう、しかも知らない間に(12)。「アミナディブ」の語源を辿ると、「高貴な私の民の車」。神に愛された尊い民の車。それは教会。おとめは教会という乗り物に乗せられ、主がいますところへと向かいます。私は初め、洗礼を受けるということが、教会に属することと、どんな関係にあるのか分かりませんでした。しかし、気づけば知らぬ間に教会にどっぷりと属している(=乗っている)自分を見出します。「もう一度出ておいで」(1)。一度若者から離れてしまったからこそ、もう一度なのです。しかし今度は、花嫁として出てくるのではありません。「シュラムのおとめ」。妻はたくさんいれど(王上11:3)、若者にとって本当の妻はおとめだけでした。シュラムとは、ソロモンという名の女性形だとされます。おとめは、若者ソロモン王(3:11)の正真正銘の王妃として登場します。私たちも花嫁であったのは遠い昔。今日アミナディブの車は、私たちを王妃の中の王妃として、若者のところへと運んでくれようとしています。この車に乗らせていただくことを、大変名誉に思おうではありませんか!


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