メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【不釣り合いなカップル】(2023年7月23日)

〈雅歌5:1-16〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 おとめは妹・恋人に格下げ。人はお互いの距離感によって、相手の呼び方を変える。今夜の若者にとって、おとめは花嫁と呼べる存在ではなかった。「パジャマを着てしまったのに、髪をシャンプーし、顔にパックをしてしまったのに」(3)。面倒くさいといった気持ちがつい面に出てしまい、会いたくないわけではないものの、呼びかけに応えられない。若者の呼びかけは、まるで良心の声。ヘロデにとって、罪を責めるヨハネの声は良心の声。彼はその声を封じず、喜んで聞こうとした(マル6:20)。ならば、信仰者はどれほどそれに聞きたいはずではないか? おとめにとって、行動に出るのが遅すぎたのは、まるで良心の声に耳を傾けつつも、すぐにはそれに従って行動できない私たちと同じ。主は、私たちに好都合な時刻に再臨されるとは限らない。昼間(=祈っている時、善行に励んでいる時)ではなく(マタ24:44)、怠け娯楽に耽り、暴力を働いている時刻にやって来られれば、まさにおとめのように、お会いしたいが今は無理、といった気持ちになるかもしれないが、対応が遅れると大変(マタ25:1-)。おとめも少し遅すぎた。後悔し、若者を追って行く。すると再び夜警に見つかり、打たれ、衣を剥ぎ取られた。夜警とは御言葉。過ちを犯せば、御言葉によって懲らしめを受けなくてはならない。おとめは女王様になっていた(一コリ4:8)。周りから随分とほめられ、自分は本当に綺麗だとうぬぼれていた。よって、全ては神の賜物によることを学び直すために、無一物とされ、裸にされなくては。すると、おとめは風邪、いや病になった。信仰とは神を求める恋の病。主を求めれば求めるほど、主の美しさに気づかされ、片や無一物の己を発見し、己と主とでは、まるで不釣り合いなカップルであるのに気づく。それなのに、主は私たちを選んでくださった。その主をどこまでも愛し、どこまでも追い駆けていく、そのような恋の病に、我らを重くかからせたまえ!


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