【私は黒いけれども美しい】(2023年6月4日)
〈雅歌1:1-6〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
「どうかあの方が私に口づけしてくださるように」。教会では、古来口づけが習慣となっていました(二コリ13:12)。しかし、口づけとはどんな意味なのか? 「御言葉が開かれると――私は口を大きく開き」(詩119:131)。甘い味がする御言葉を「食べる」という概念がありますが、これは、律法が口で朗読され、御言葉が口から発せられるものだからです。口から発せられた御言葉を、口を開いて吸収する。おとめは、あの方、つまり花婿キリストの御言葉を吸収したがっています。私たちも、御言葉を吸収しようと教会にやってきているはずです。よって、私たちもキリストに向かって、毎週のようにこう言ってはばかりません。「あなたが私に口づけしてくださるように」。「私は黒いけれども愛らしい」(6)。「日焼け」とあるように、どうやらこのおとめは外で働く農民であり、さらに何らかの罪を犯し、自分の体を守ることができなかった悲しい思いに耽っています。黒い肌は古代でもあまり美とはされないものであり、農民という職業も見下げられていました。雅歌のヒロインは、そういった女性でした。人間には、美に関してほぼ共通の価値観がありますが、最終的に美とされるのは、世の価値観によりません。むしろ、神が認めてくださる限りにおいて、美しいとされます。さらにこのおとめのように、私たちもそれぞれ罪を犯し、罰を受け、罪で黒くなってしまっています。そんな私たちを、誰が見初めてくれましょう? しかし、主はあるがままの私たちを、美しいと言ってくださいます! あの姦淫を犯した女性は、ひざまずかせられ、土と泥で身は黒ずんでいたでしょう(ヨハ8:11)。「こんな私を見つめないで!」主は言われます。「あなたを罪に定めない。あなたは罪で汚れている。けれども私の目には美しい」。主が美しいと言ってくださる自分に、誇りを持ちましょう! しかし、自分を美しいと認めてくださる主をこそ、誇りといたしましょう!