メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【目は鳩のよう】(2023年6月18日)

〈雅歌1:9-17〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 待ちに待った若者の第一声は、「ファラオの車をひく馬よ」。ファラオの車にヨセフもヤコブたちも乗りました(創41:43、45:27)。ヨセフが遣わした車を引く馬<イスラエルの民(=教会)を乗せるために遣わされた車をひく馬<当然、教会のかしらもそこに乗っておられるところの車・・・・・・おとめなる教会には、教会のかしらなる主を乗せ、世に紹介していく役目があります。若者は、自分に仕えようとする教会の美しさを称えているのでしょうか? あるいは、ファラオの車といえば、イスラエルの民を滅ぼそうと追って来たものです(出15:1)。その車は罪の象徴。罪という車を紅海へと運びましょう。そこは、キリストの紅い血が注がれた十字架という場所です(マタ16:24)。自分の罪からなる車、私たちの体を背負ってそこに向かう――そういった姿をこそ、若者は真っ先に称えてくれています。おとめは全身飾りと香料がつけられていました。しかし、飾りも香料もつけられない部位があります。それは目です。「目が澄んでいれば全身が明るい」(マタ6:22)。心が現れ出る目が澄んでいれば、全てが清いのです。しかしむしろ、主が言われる「目」とは、心の目のことなのでしょう(エフェ1:18)。心の目こそ、飾りや香料をつけることができないところです。もし、おとめの心の目が澄んでいなければ、飾りは全てけばけばしいものと一変したことでしょう。「心の目は鳩のよう」。おとめは全ての点で合格でした。さらに、目は素直さのたとえでもあり(マタ10:16)、そしてそれは、鳩なる聖霊の賜物です。私たちも聖霊によって目を輝かせ、素直さという美徳を心の目に現しましょう! 恋人同士寝屋に向かいます。そこは野外でした。しかし、「レバノン杉・糸杉」は神殿を象徴します。野原が神殿とは、どういうことなのか? 海の上であれ洞窟の中であれ荒れ野であれ、そこが花婿との出会いの場であるならば、そこは神殿でなくて何でありましょう!


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