【終活】(2023年5月28日)
〈創世記50章〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
ヤコブ本人は、これほどの盛大な儀式(10)を望んでいたわけではないでしょう。葬儀は伝道の機会となるとよく言われます。ヨセフたちも、エジプト人に対し、そして、葬儀が行われた現地の人々に対して、自分たちの信仰を見せ、真の神へと導く伝道の場と考えていたのでしょうか? 残念ながら、現地の人々は、神信仰へと導かれなかったようです。彼らからして、それはエジプト流の儀式に見えたのです(11)。葬儀を通して伝道しようとしても、近所の人たちが、「あれは何々式の葬儀だ」と思ってしまうならば、伝道にはなりません。私たちにとって、葬儀はいわば復活のしるしと位置づけられます。この本質を見失う時、私たちの葬儀も、エジプト流の儀式と化してしまいます。復活の希望を新たにされるような葬儀であれば、参列者や近隣の人たちに対する伝道ともなるでしょう。最後のヨセフの涙には、どんな意味が込められていたのか? 兄弟たちが、まだ自分を恐れていたからです。あんなにも感動の涙を流して抱き合ったというのに! ヨセフは兄弟たちを再度赦します。しかし、彼が涙を流したことも覚えておきましょう。確かに、主は、何度も罪の赦しを宣言してくださいます。しかしその都度、主は涙を流されます。これは、主を苦しめることです。ヨセフも遺言を託します。ファラオに継ぐ地位の彼ならば、どれほど盛大に追悼が行われたことでしょう。しかし、彼はエジプトにて死に、そこで仮の埋葬をされました。ヨセフは知っていたのです。自分の葬りが盛大に行われることは、決して伝道には繋がらず、むしろ、あまりの豪華さのため、つまずきとさえなるかもしれないと。私たちも、葬儀に関する指示に限らず、残された者たちにつまずきを残すようなことは避けねばなりません。そして何よりも、復活の希望をもって墓に下る準備をしましょう。それこそが、キリスト信者にとっての終活であり、新しき霊のイスラエル式埋葬準備です!