【これが本当に祝福?】(2023年5月21日)
〈創世記49章〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
「父は祝福をもって祝福した」(28)。父としては、子どもたちを祝福したのです。でも祝福となっているでしょうか? 彼は、祝福か呪いかも分からなくなるほど耄碌していたのか? 主はペトロに個人的な祝福を告げられました(ヨハ21:18)。ペトロは祝福を受けたのです。「神の栄光を現すようになる」(ヨハ21:19)と記されているからです。確かに、ペトロの死は、客観的に見れば屈辱的で不幸であり、呪いそのものでした。しかし、ペトロはその呪いとも思える出来事を通して、栄光を現し、真の祝福にあずかる者となりました。ヤコブの息子たちの中にも、内容としては呪いを受け取った人がいました。ですが父としては、「人間的にはたとえ呪われたような生涯であっても、その生涯を通して神のご栄光を現しなさい。そうすれば天の祝福が与えられる」と言い聞かせたのでしょう。皆様は、祝福の人生か、あるいは半ば呪われたような人生ですか? しかし重要なのは、どんな人生であれ、それを通してどう神のご栄光を現すかです(ヨハ9:3)。それによって、自分の人生が本当に祝福されたものなのか否かが判明します。死に逝く者はまだ墓を見つめていますが、前回とは違います。前回はヨセフだけを呼び寄せましたが、今回は子ども全員に伝えています。これはヤコブにとってはすばらしい変わり様です。なぜならヤコブの人生は、偏愛続きであったからです。偏愛が争いを招く罪ならば、ヨセフは最後に、その罪を捨て去ったかのようです。私たちも死に逝く際には、すべての欠点が克服されているようと願いましょう。そして、信仰者の道を走り通したヤコブには不安はなく、目指す所だけを見ています(二テモ4:8)。私たちに、もし何らかの不安や不満が残っているならば、まだ天に赴く準備は整っていません。まだ間に合う内に、やり残した務めを終えるように励みましょう。死に逝く際に、一抹の不安もなく、天だけを見つめることができるように!