【十字をつくって】(2023年5月14日)
〈創世記47:27-48章〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
皆、年齢や境遇に即した願いを持っているはずです。だから、相手の肉的願いを聞く際には、自分のそれに気づき(マタ7:5)、批判するならば、せめてヤコブのように強い信仰を持ってからにしましょう。しかしヤコブはこの時、どこか気弱で寝台に横たわったままです(31)。一方、祝福を伝える際には、力を奮い起こし、寝台の上に座りました(2)。自分の願いを伝える時よりも、残された者に祝福を伝える時の方が、大きくなっていなくてはなりません。主も十字架では小さくなられましたが、甦って祝福される際には、山(マタ28:16)のように大きなお姿のイメージではないでしょうか? ヤコブは手を交差させ、十字を造って祝福しました。それは、上の子を低く、下の子を大きくさせるといった祝福です。主もまた、天に上られる際には御手を上げて(ルカ24:40)祝福されましたが、それ以外の時、御手を交差させ祝福されたこともあったのではないか? そしてその際の祝福は、ヤコブが伝えた祝福と同じだったのではないか? 主も生前、これと同じ意味のことを何度も言われたように(マタ20:16)、復活後も、この内容の祝福を残してくださったと思います。誰もが兄に譬えられる長所と、弟という名の欠けを持っています。しかし主は、ご自身の十字架でもって、それを逆転しつつ祝福してくださいます。では、長所は消えるべきものなのか? 彼は言っています。この子も大きくなるであろう(19)と。主も私たちの長所を、捨てるようにとは命じられません。それもまた大いに力を増して用いてくださいます。しかし、主が一番祝福されるのは、私たちの弱さであり、そしてそれをご用のために一番大きくしてくださいます。ご自身の右手と左手を交差させ、新たな十字架を造りながら、祝福してくださる主のお姿を想像いたしましょう! そして、自分の弱さを引き立てていただき、共に言いましょう、私は弱いときにこそ強い(二コリ12:10)と!