メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【私に触れたのは誰か?】(2023年12月10日)

〈ルカ福音書8:26-48〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 主がゲラサ人の町で癒されたのは、悪霊に取りつかれていた男一人だけでした。結果的に、主はこの人を救うためだけに、湖を渡られたのも同じです。これに聞く私たちは、自分を助けるためだけであっても、主がこちらに来てはくださらないかと願います。一方、主に来ていただくことを願うのではなく、自ら主に近づいた人もいます。主の周りに押し寄せていた群衆を掻き分け、主の御衣に触った女性です。主を取り巻いていたのならば、皆が我先にと主に触ろうとしていたはずですし、実際主に触っていたはずです。しかし主は、彼女の手だけを感じ取られ、彼女との接触だけを、ご自身との触れ合いとご認識されました。――自分は主に告白し、教会に必死に通っている。でも自分は、主の周りに押し寄せているだけではないのか? 大勢の群衆の一人として、主の周りをひしめき合い、押し合っているだけではないのか? 必死に主に触れようと手を伸ばしているのか? もしくは、主に触れるのを恐れているのではないか? なぜなら、主に触れることは、もう後には戻れない献身を意味し、主の弟子となることの決意表明だからです。よって、主に近づきたいのは嘘でないものの、その勇気も覚悟もなく、主の周りを取り巻くだけで、あえて直接触れぬまま主の近くにいようなどと、図々しい信仰生活を送ってはいないか? 「誰かが私に触れた」とのお言葉は、ご自身に触れた者を咎めるおつもりで放ったものではありません。私たちはむしろ、主が自分に対し、「あなたは私に触れていない」「私から力が出ていってはいない」といったお言葉を告げられるのを恐れましょう。あなたが私に触った。私は力が出ていくのを感じた――このお言葉を、自分に向けてのお言葉として聞くことができるならば、既に私たちは、主から出ていったところの御力が伝わっています! そしてその際には、あなたの信仰があなたを救ったと、主はおほめになってくださいます!


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