メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【眠ってしまわれたのは】(2023年12月3日)

〈ルカ福音書8:16-26〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 主の母と兄弟たちは、主を家に引き戻そうと思っていたのかもしれませんが、彼らは皆、群衆がひしめいていたせいで、主に近づくことができませんでした。しかし、同じく群衆がひしめいていたため、主に近づくことができない場合であっても、まことの信仰者ならば大胆な行動に出るものです。たとえば木に上ったり(ルカ19:3)、あるいは群衆をかき分けて近づこうとしたり(マコ5:27)。主の家族は、その場に立っていただけでした。よって主は離れていかれます。舟に乗っている途中、全てを捨てて従ってきたはずの弟子たちも、再度召命について考えねばなりませんでした。しかし、弟子たちにはまだ迷いがあったようです。彼らの心の迷いが、湖に吹き荒れる風や波に象徴されています。教会という船に乗っている私たちも、今一度、主に従う決意を表明しようと主の方に向き直ると――、なんと主は眠っておられました。主は教会という船の船頭。船頭が眠ってしまえば、船は沈没してしまいます。不信仰を責められた弟子たち。どんな点における不信仰を責められたのでしょう? 船頭であられる主を眠らせてしまったこと自体、大いに不信仰でした。弟子たちが信仰に燃えていれば、主も眠られることはなかったでしょう。余りに退屈な時には、主も眠ってしまうかもしれませんし、せめて眠ったふりをして私たちの様子を探られます。ではどんな時、主は退屈されるのでしょう? 主がファリサイ人たちの質問に答えず、地面に何か書いておられたのは(ヨハ8章)、彼らの態度に退屈を覚えられたからだと考えられています。私たちが、自分を棚に上げて誰かの罪を言いつけたり、自分が憎む人をとっちめるために主の権威を利用する時、主は退屈を覚えて眠ってしまわれます。私たちが熱心に御言葉に聞き、御言葉を実践する者であるならば、主におかれても眠気など吹っ飛んでしまいます。ですから何としても、主を眠らせないようにいたしましょう!


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