メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

【預言者以上の者】(2023年4月30日)

〈ルカ福音書7:18-35〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師

 ヨハネの「来るべき方は――」との問いは、洗礼者には似つかわしくない不信仰な問いです。彼自身、主がメシアであることをすでに告白したはずです(マタ3:14)。ヨハネは、主がメシアであるのを疑い始めていたのでしょうか? 彼は光の届かぬ牢にいたので、理性と信仰を失いかけていたとしても、おかしくはありません。あるいはヨハネは、主をメシアだと信じつつも、そのメシアは、炎で焼き尽くす厳しい裁き主だと考えていたのかもしれません(ルカ3:17)。しかし、主がこれまでなされてきたことは、その怖いイメージとは全く逆のことでした。赦し、癒し、慰めることだったのです。よってヨハネとしては、自分のメシア像と違っていたので、価値観が崩れるかのようにして、信仰が崩れかけていたのかもしれません。ですが、「ヨハネは預言者以上の者である」との主のお言葉は真実です。もし、本当にヨハネがつまずきかけていたとしたら、どうしてそんな人が預言者たちに勝るでしょう? よって、ヨハネは決して信仰を失いかけていたのではありません。むしろ信仰の弱い人々のためになした質問でした。預言者たちは皆、人のために執り成しました。一方、自分が信仰につまずいた振りをしてまでも、人を助けようとした預言者はいたでしょうか? ヨハネが愚かな質問をぶつけたのは、愚かな人を救いに導くために、己を愚かな人に合わせたからです(コリ一9:22)。ヨハネはつまずきかけた人を演じただけです。しかしその演技を通して、「苦難の時、私はつまずきかけてしまう。しかしヨハネでさえ迷い、主に問いつつ信仰を回復していった」と人々に思わせることによって、人を導くことができました。この導き方をしたヨハネは、預言者以上に偉大です。一切の権威を捨て去り、愚か者に成り下がってでも人を救おうとしたのですから。しかし、主は単に、ヨハネがいかに偉大であったかを教えておられるのではありません。私たち自身、愚か者になり下がってでも、呪われた者になり下がってでも、人の救いのことを願うことができるならば、もはやそのときの私たちは、預言者よりも偉大な者へと成長しています!


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