【師匠になる方法】(2023年10月8日)
〈ルカ福音書6:27-42〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい――この掟は全ての人が守るべきものです。ではこの掟は、主ご自身には適応できるのでしょうか? 主が私たちを愛されたのは、主ご自身、私たちから愛されたいからです。主のこのお気持ちに気づきましょう。左の頬を殴られるといっても、愛が伴っていなくてはなりません(一コリ13:3)。預言者ミカヤは、敵と呼べる人物から頬の片方を殴られました(王上22:24)が、主の言葉を伝えるのをやめず、そのせいで獄に繋がれてしまいましたが、これは、左の頬を打たれる以上に重い仕返しです。そして、預言者たちは皆、民に裁きを伝えましたが、同胞に対する愛を欠いていたわけではありません(アモ7:2)。私たちは相手に対する愛を欠いており、無駄だと思ったらすぐに引き下がってしまうのではないか? 自分の目から丸太を取り除き、見えるようになり、相手の目からおが屑を取ることができる人が師と呼ばれます。自分の罪の大きさは、自分自身一番よく把握しています。一方、相手の罪は知り尽くすことができず、丸太のような大きさであってもおが屑程度しか知ることはできません。相手のことはともかく、自分の目から丸太を取り除いて初めて、相手の目からつっかえ物を取ることのできる、つまり回心へと導く師となります。では、丸太を目から取るのはどうしたらよいのか? 丸太は無理でも、おが屑ならば目に入ります。目に入ったゴミは、涙によって洗い流します。その涙はただの涙ではなく、悔い改めの涙です。皆、神に裁かれるべき大きな罪(=丸太)を抱えています。この自覚をもって、悔い改めの涙を流しましょう。罪が洗い流され、正しいことを見ることができるようになり、さらには、相手を悔い改めに導くことのできる師とどうしたらなれるのかは、どれだけ早く、どれだけ激しく、悔い改めの涙を流せるかにかかっています!