【良い木】(2023年10月15日)
〈ルカ福音書6:43-49〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
主が言われる「良い木」とは、聖霊の実(ガラ5:22)をもたらす木のことですが、良い木といえば、何よりも主がおかかりになった十字架の木であると言えるのではないでしょうか? なぜなら、主の十字架こそ、愛、平和、寛容といった数々の良き実を結ぶのですから。そして、私たちも、主の十字架と種類が全く同じ木、すなわち、それぞれに課された十字架を背負って歩み続けるならば(マタ16:24)、自分が背負うその十字架の木こそが、愛、平和、寛容といった良き実を結んでくれるはずです。ですから、良い実を結ぶ者となるためにも、まずは自分自身に課された十字架を背負う者となりましょう! 一方で、「清い人にはすべてが清い(=良い)。汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはない」(テト1:15)「神がお造りになったものはすべて良いものである」(二テモ4:4)とも言われています。そもそも、「良い」「悪い」とはどういった意味なのか? 主の御前にあって良い、悪いという意味です。私たち人間は、神がお造りになったものです。ですから、神の御前にあって、とりわけ人間の存在は良いものです。そして、悪人であれどんな人であれ、私たちが感謝をもって、御言葉と祈りのうちに相手を心から受け入れるならば、私たち自身にとっては、すでに清く良い存在とされているのではないでしょうか? さらに、私たち自身、主の御前にあって清い者となっていれば、相手がどんな人であれ、憎むべき存在ではなくなり、むしろ愛すべき人へと、自分自身の中では変わっているはずです。よって、はたして自分の言葉や業が、主の御前に清く受け入れられているかどうかを確かめるためには、私たち自身の中で、神がお造りになられたもの、具体的に言えば、すべての人間がもはや敵ではなくなっており、愛すべき隣人へと変わっているかどうかでもって、それを判断いたしましょう。