『境界線は越えない』(2023年1月15日)
〈創世記31章〉,前橋中部教会主日礼拝説教(要旨) 堀江知己牧師
ラバンが縞やぶちのある家畜をヤコブの取り分としたのは、とりわけ真っ白な羊に比べて価値が低かったからではないかと想像します。しかし、神は価値の劣った家畜を殖やし、祝福してくださいました(創1:22)。私たち人間は、まさしく肌の色で判断してしまうように、見た目という価値基準に従ってしまうものですが、神におかれては、たとえ見た目が優れないものであっても増し加えてくださり、選ばれし者たちの益としてくださいます。偶像崇拝から脱出していなかったラケルは、家の守り神の像(19)を盗んで来たとのことですが、父に対する「お父さん――」(35)との言葉も真っ赤な?だったのでしょうか? もし、ラケルのこの言葉は本当だったとしたら、彼女が持って来たその像は、この時点で汚れてしまったはずです(レビ15:20)。よって、偶像は汚れて効力を失い、滅んでしまいましたので、約束の地に偶像が持ち込まれることは事実上ありませんでした。私たちも約束の地への旅を続けていますが、もしその道中に、古きに属する汚れたもの――敵意、争いなど――を携え持って来てしまっているのだとしたら、私たちも、らくだならぬろばに乗って古きものの効力をなくし、さらには道端にかなぐり捨ててしまいましょう! 約束の地に入る私たち一人一人に対して、そのためにこそ、ろばが用意されているのです(マタ21:7)。ラバンはすっかり居直り、ヤコブと契約を立てます。その際に石碑、ないし石塚を築きます。私たちにとっても、古き地から旅立ってきた証しとして、一つの石が置かれています。それは主ご自身です(一ペト2:4)。私たちが逃げ出そうとするとき、越えてはならぬ罪の境界線を越え出ようとするとき、キリストという石、さらには十字架という記念碑がどーんと聳えてそれを遮ってくれます。「こちら側に戻って来てはならない、戻って約束の地に向かいなさい」と!