メッセージ(礼拝説教要旨) 最新版 先週までのメッセージ

『私には神の御顔のように見えます』(2023年1月22日)

〈創世記33章〉,前橋中部教会主日礼拝説教 堀江知己牧師

ヤコブは兄に贈り物を頑なに渡そうとします。後々ただで赦してもらったと大きな顔をされないためです。エサウが本当にヤコブを赦していたのかどうか、そしてエサウの言葉と行動とが本心からのものであったのかは分かりかねない部分がありますが、本心からのものであったようにも読めます。一方、疑い深いヤコブが取った行動は、自分にとって大切な者をより後方に置くといったものでした。では、主は愛する者を最後に置かれるのでしょうか? 預言者たちは、人間としてあるいは信仰者として、主にとってとりわけ大切な存在だったはずですが、彼らは矢面に立って戦い、その多くが殉教しました(ヘブ11:32)。弟子たちは主にとって特別な存在であったはずですが、主は彼らを戦いの最前列に送り出されました(マタ10:16)。なぜ主は愛する者たちに対し、厳しい目に遭わせられるのでしょう? 鍛え上げるためです(ヘブ12:6)。さらに、主が愛する者を鍛えられるのは、ご自分の模範に見習わせ、ご自分に似たご自身の子どもとなってほしいと願っておられるからだと思います。エサウはさながら神の御顔のように見えたそうです(10)。これはお世辞であった可能性もあり、そもそも神の御顔は見ることができませんから、神の御顔に似た顔といったものも知るはずがありません。しかしもし、自分を騙した相手を赦し、憐れみを施せる人がいるとしたら、その人の顔はあたかも神の御顔のように見えるのではないか(使6:15)? 神の御顔に似るためにはどうしたらよいのでしょう? 神の家族、子どもとなることです! 御父の子であれば御父の顔に似ているはずです。さらに、憐み深い御父の御心を行う(マタ12:49)ことによって、御父の子となります(マタ5:44)。私たちも神の御心を行う者となり、憐れみ深くなれば、顔はさながら神の御顔のように明るい輝きを放つことでしょう!


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